久野明子さん、現地調査でアリス・ベーコン宛の書簡と出会う ― 2026/06/26 07:51
1882(明治15)年11月、足掛け12年間のアメリカ留学を終えた捨松と津田梅子が、アメリカの蒸気船アラビック号で日本へと木の葉のように揺られた太平洋上を、百年後の1982年7月、久野明子さんは日航機でサンフランシスコに向かって飛んでいた。 祖母や父の昔話の中に登場する「ひいおばあ様」、詳しいことは何も知らない大山捨松の青春時代を調べるためだった。
それより前、ヴァッサーカレッジの同窓会事務局と手紙のやりとりをした久野さんは、大山捨松の情報を探していることを同窓会誌に寄せた。 それに対しケース夫人とハインツ氏からの反応があり、アルフレッド・ベーコン氏の娘さんジル・ブライアン夫人からも手紙が届いた。 その手紙には、捨松が日本へ帰ってから約40年間にわたってベーコン牧師の末娘アリス・ベーコンに書き続けた数十通の手紙が、今でもベーコン家に保管されていると、小躍りさせるようなことが書いてあった。
久野明子さんの現地調査は、手紙で知り合った親切なアメリカ人達の協力で、大成功を収めた。 佐伯彰一さんの巻末解説に、こうある。 「まず驚かされるのは、アメリカ側の何とも見事な書類整理ぶりである。対象の大山捨松が、「日本からの最初の留学生」という格別話題性のつよい存在であったせいもあろうけれど、その行きとどいた一件書類の整備ぶりには、我が国の実情を思い合わせて、感嘆せざるを得ない。」「最大の収穫は、大山捨松のアメリカの友人アリス・ベーコン宛の書簡との出会いであったが、これは純粋に私的な書簡の、私人による見事な保存の実例に他ならない。」
明治15(1882)年11月21日、捨松と梅子は横浜港に帰ってきた。 帰国10日後のアリス・ベーコン宛の手紙。 日本に帰ったらさぞ恥をかくだろうと心配していた日本語が、「思いのほか、祖国の土を踏むと私の舌はほぐれ、正しい日本語ではありませんが自分の意志を家族に伝えることが出来」、「私は日本の着物がとても気に入り、帰国してからは家の中ではいつも着物です。外出する時は洋服を着てでかけます。東京には、洋服を着る日本婦人は6、7人位しかいないので、私は何時も好奇の目で見られてしまいます。」
北海道開拓使はすでになく、捨松は帰朝報告と仕事の相談のため、文部省に出向いた。 国を離れる時、皇后陛下から「成業帰朝の上は婦女の模範とも相成様心掛け日夜勉学可致事」との御沙汰を頂いたからには、帰国後は当然、国が何らかの仕事を準備しているものと期待していたのである。 男子留学生の場合、三年ほどの留学で、大学や官庁に相応な仕事が与えられた。 だが、女性である捨松と梅子の将来については、国は具体的な計画を何一つ持っていなかったのだ。
ヴァッサーカレッジの学士号を持った捨松だが、女性だったために大学で教えることに文部省は難色を示した。 前例がないのである。 文部省をせめたてた二人の側にも問題があった。 二人とも日本語の読み書きがまったくできなかったのである。 当時の日本の社会では、日本人でしかも女性で、日本語の使えない人間の出来る仕事は皆無だったのだ。 捨松、繁子、梅子の三人は、生涯日本語には苦労したようだ。 手紙を書いたり、新聞を読むのはほとんど英語であった。
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