周縁への興味、「文明と文化」2024/02/17 07:22

 古屋司会…『街道をゆく』、半分ぐらい経ったところで、もう止めようかという危機があった。編集者が上手くて、どこか周縁で行きたいところをと、「南蛮のみち」バスクへ行くことになった。日本にキリスト教を運んできたザヴィエルはバスク人だった。

 今村…長崎の事件を書いた短編がある。ユーチューブに「バスク語ラジオ」というのがあり、日本語に聞こえる。ウラル・アルタイ語系、モンゴル語、日本語。周縁、終焉(さびれる)にも興味がある。 岸本…ポルトガル南西端のサグレス岬に行った、ポルトガル人は、はにかみで、おとなしい、とっつきにくいけど親切、非生産的で、出窓に花を飾る、機能性と関係ない場所を飾る。そのポルトガル人が、なぜ大航海に乗り出したのか。サグレス岬では、一方向へ潮が流れている、それは海が滝のように流れ落ちる地の果てがあるのではなく、海は先につながっていることを感じさせる、そこへエンリケ王子が航海学校を作った。 磯田…司馬さんは、詩人であり、画家だった。矢沢永一との対談で、日本画から油絵に、さらに抽象画になってきたのは、懐中電灯の電池を入れ替えた時期だったという話をしていた。 今村…司馬さんは、こちらとあちら、両方から見ている。想像力は二人分、三人分あり、憧憬を抱く。 磯田…西から見ていた波で、日本そのものをどう捉えるのか。石を神様とし、さざれ石になっていくようなのが、普遍に続くことを考える。

 司会…「文明と文化」に幅を感じる、多数者には文明しかない。普遍的な少数者には文化がある。文化なしに人間の心の安定は得られない。バスク人は、特殊性に精神の安定を得る。 磯田…城の上の火除けに、シャチホコを飾るか、消火器を置くか。消火器は文明の利器、人工知能につながる。司馬さんは、違うものを、違うものとして、一つずつ拾っていく、これがいい。 岸本…『街道をゆく』が始まった昭和46年は、日本各地で文化が失われていく時期で、それを拾う最後のチャンスだった。俳句をやるので「歳時記」をよく見るが、いろいろの習わしが昭和30年代に、さかんに途絶えていく。そういう危機感が司馬さんにはあった。 磯田…病院で生まれた人(安全な出産)と、家でお産婆さんで生まれた人の、時代の違い。 岸本…産業構造重視。 磯田…私は、NHKの「新日本紀行」を重視している。 今村…日本人らしさ。最近は、多様性と言われるが、「秋茄子は嫁に食わすな」と言うとコンプライアンスの問題になる、嫁が鼠説など、いろいろな意味があるのだが。今の時代に合わないと、潰される。文明が、文化の顔をしてやってくる。受け取り役、読み取り役のぼくらが劣化している。『21世紀を生きる君たちへ』は、小6だった。今、司馬さんは何を言ってくれるのか、自分の中の司馬さんに問いかけている。                               (つづく)

磯田道史・今村翔吾・岸本葉子各氏のシンポジウム2024/02/16 07:06

 第二部はシンポジウム「『街道をゆく』―過去から未来へ」、磯田道史・今村翔吾・岸本葉子(エッセイスト)各氏、古屋和雄さんの司会だ。 まず『街道をゆく』について。 今村…司馬さんの小説を読んだ後、中学2、3年で全部読んだ。小説を補完しようとして届かなくなり、また小説に戻った。 岸本…散策だ、頭での、足での。司馬さんと一緒に歩く。 磯田…中学以上で読んだ。紀行文がおいしかった。取材が足元から崩れていく、その差分の感じがいい。

 司会…司馬さんの旅は45歳から25年間、自然条件、山川草木の中に立ってみる、天、風の匂い。 岸本…「モンゴル紀行」が、みずみずしい。ビジュアルブック・シリーズの取材で、司馬さんの30年後に行った。司馬さんは、少年の心に帰って、沢山の体験をし、昔習ったモンゴル語で喧嘩の仲裁などしている。 磯田…「周辺」がポイント。3つか4つに分けられる。海外、古い核、境目A、境目B。海外では、オランダ、アイルランド、干拓地だ。古い核は、葛城、三輪山。境目Aは、薩長。境目Bは、糸満。『街道をゆく』ではないが、『ロシアについて』が出色。 今村…ウォッカについて、さんざんけなす、怨みでもあるのか。人生の「周辺」で蓄えられた知識。ダンスの教師をしている時、滋賀の高島に教室があって、毎週行っていたが、司馬さんはそこらへんのおばちゃんに声をかけて、聞いた逸話にちゃんとふれている。朽木の風を、的確に文章にしている。それを文章に入れると、仏像に目を入れるようになる。それは小説ともリンクしている。 磯田…直木賞の「梟(ふくろう)の城」、御斉峠(おとぎとうげ)の炭焼きのおじさんの顔が見える。司馬さんは「愉快である」が口癖。天文13年の鉄砲鍛冶、もぐさ屋はみな亀屋とか、井伊直政は家臣に関ヶ原のことを語るのを禁じたが、石田三成の領地だったから。新しい「人国記」「風土記」として読める。

 岸本…司馬さんは、五感で感じている。ゴビ砂漠に、司馬さんの30年後の2004年に行ったが、背の低い草が生えていて、良質のオリーブオイルのような香りがした。司馬さんはモンゴルのウランバートルへ三日がかりで、イルクーツクでビザを得て入ったが、今は成田から直行便がある。南ゴビは空気がいい。『草原の記』のツェヴェクマさんは周縁に生きる運命の人、人に書かれた歴史がある。 磯田…単色じゃない、画素の細かい絵。オホーツク人、アイヌ以前の。資料と旅に出て五感で感じるのが、車の両輪。糸巻のように、無意識の塊ができる、そこから雫が落ちる集中力。 今村…空気の中から、水を取り出す。書く前に、一回忘れるのは、かまわないと思う。残ったものが、小説の核になる。日本人は、「人国記」が好き、対話に入っていける。『童の神』は、土の匂いまで憶えている、ノートを放り出して行く取材が多い。                                        (つづく)

司馬遼太郎さんの第27回 菜の花忌2024/02/15 07:06

閉会後、頂いてきた日比谷花壇調製の「菜の花」

 2月12日、司馬遼太郎さんの第27回 菜の花忌が文京シビックホールであった。 シンポジウムに、磯田道史さんと『人よ、花よ、』朝日新聞連載中の今村翔吾さんが出るというので、往復はがきで申し込んだら当って、久しぶりに出かけた。 いつもの元NHKアナ古屋和雄さんの司会、テレビ『街道をゆく』の朗読でお馴染みの声だ。 まず記念財団理事長で、司馬さんのみどり夫人の弟、上村洋行さんの挨拶、東大阪市の司馬遼太郎記念館の周辺はご近所の方々の協力もあって、菜の花の花盛りだという。

 昭和46年から25年間の『街道をゆく』の旅は、みどり夫人、画家(須田剋太さんから安野光雅さん)、編集者、他社の編集者など、十数人の旅で、夜に部屋で集まってする話が面白い。 いつの間にか、司馬さんの独談となり、毎日違うテーマの興味深い話題になる、何でもない話が、歴史論、文明論にすりかわっている。 『街道をゆく』の原型は、大阪万博の2年前、昭和43年からの文藝春秋の『歴史を紀行する』。 スタイルは同じで、土佐から、竜馬と酒と黒潮、三回目に滋賀県、近江商人の故郷。 『街道をゆく』の初めは湖西の道(朽木街道)、滋賀県が好きだった。

 つづいて、司馬遼太郎賞贈賞式、第27回は岡典子さんの『沈黙の勇者たち ユダヤ人を救ったドイツ市民の戦い』(新潮社)。 スピーチで、このテーマに取り組んだのは10年前、50歳の時で、皆に反対されたが、人が最後に求めるものは何か、これからの自分と人々の道しるべになるものを、追い求めたいという衝動にかられて、20年がんばってみようと始めた。 そう思ったのは、20年間クラシック音楽をやり、桐朋学園大学でフルートを専攻、手を痛めて30歳前に筑波大学大学院で、心身障害学を研究、現在、筑波大学教授、専門は障害者教育史。

 ナチスドイツを学習することから始め、現地に何度も足を運んでいると、一筋の強い光が見えてきて、絶望より希望を感じるようになった。 ナチスドイツには、1万から1万2千人の潜伏したユダヤ人がいて、偽りの身分証などを持っていた。 一方、彼らを助けるドイツ人が2万人いた、平凡な普通の人々だったが、良心、覚悟、信念があった。 その両方の人々は、生きるとは何かを教えてくれた。 なぜ希望を持ち続けられたのか。 密告社会の中でも、互いを信じることで、結ばれていた。 相手を信じるつながり、自分は一人ではない、と。 私も編集者と出会って、昨年5月の出版に漕ぎつけたが、私も一人ではないというのが、出発点になって、多くの読者に恵まれ、この賞をいただくことになった。

 16歳から25歳までの若者の知的探究心を応援する「フェローシップ賞」は、朋優学院高校2年の船橋櫂君で、企画テーマは「関東・京都・奈良のカモ神社調査~今も残る古代カモ族の息吹を感じる~」。 『街道をゆく』にたびたび出てくる「カモ氏」に興味を惹かれ、「カモ」と名のつく土地、各地の「カモ神社」に足を運んで調査し、多くの史料にも目を通し、自分なりの考えを報告にまとめたい。

 昨年の「フェローシップ賞」、平田京妃(みやび)さん(大阪大学ベトナム語専攻2年)「ベトナムの文化から考察する健康・ダイエット」の中間報告。 ベトナムの食生活は魚中心、やせ型の人が多く、アオザイは身体の線が出て、太ると着れなくなる。 「もったいない文化」があり、「実を取ったら、木を植えた人のことを思え」という諺があり、日本の「いただきます」に通じる。 食べられない時代、二つの戦争、アジア太平洋戦争とベトナム戦争があり、「ご飯食べた?」という挨拶がある(ミャンマー、韓国も)。 日本は欧米文化の印象が強く、古さも残る町並みのベトナムの「もったいない文化」を学ぶべきだ。

二本榎、源昌寺ヤマトフ増田甲斎の墓2024/02/14 07:14

 俵元昭さんの『港区史蹟散歩』で、「画家・英一蝶の墓」の次が、「二本榎の中心地」だ。 高輪消防署二本榎出張所があるが、公式の町名に「二本榎」はないという。 出張所の向かい西側の駐車場に幹が二本に分かれた榎が一本あって、これが現在の二本榎だ、とある。 この位置に昭和37(1962)年に伊勢原市に去った上行寺(じょうぎょうじ)の門があり、その門前に街道の印に植えられた二本の榎があったため地名が起こったという。 徳川家康の入国のときにも二本榎の徳明寺(現存しない)で休憩したとある。 現在黄梅院(高輪一-27-21銭洗不動所在)に二本榎と地名の由来を石碑にしてある。

 出張所と高輪警察の間の道を右に下ると、国道1号線桜田通りを越えて、明治学院がある。 昭和29(1954)年からここの中学に通った私は、池上線で荏原中延から五反田に出て、都電4番に乗り五反田駅前から白金猿町(現、高輪台駅のところ)の次、二本榎で降りた。

 二本榎の次は、清正公前だが、そこまで行く前の右手に、源昌寺(高輪一-23-28)という寺がある。 これも『港区史蹟散歩』で知ったのだが、ここに福沢と多少関わりのあった「幕末の奇行国際人増田甲斎(橘耕斎)の墓」がある。 幕末の時代相と性格から数奇な運命をたどった人物で、経歴もはっきりしない部分がある。 遠州掛川の藩士立花粂蔵だが、人望を失う事件をおこしたとも、根津遊廓で喧嘩したとも、主家の什物を売って浪費したとも、恋愛事件で女性を殺したとも、藩風にあわず嫌われたともいう。 脱藩して博徒に交わり、のちに出家し、諸国行脚に出た。 伊豆の戸田(へた)に滞在中、ロシア軍艦の難破に遭遇し、ロシア人通訳にはかって、代船の出航に芝居用の赤毛のかつらをかぶり、伝染病の水兵を装って密出国した。 ロシアに向かう途中、イギリスの捕虜になったりしたが、ペテルスブルグでロシア外務省の通訳官となってウラジミール・イオシフォヴィッチ・ヤマトフと名乗った。 安政4(1857)年、外交官ゴシケウィッチと協力して橘耕斎の名で『和魯通言比考』を著わした。 これが最初の日露語辞典である。 その勤務ぶりにもさまざまな風説がある。 文久2(1862)年の遣欧使節で、福沢諭吉は訪れたとき刀掛けがホテルに用意してあったのに驚くが、彼の仕業だった。 滞ロ20年を経過し、明治6(1873)年岩倉具視使節団の一行に会って説得され、54歳で帰国した。 ロシア政府の年金で増上寺境内内山下谷38号の一室に起居し、明治18(1885)年65歳で死去すると、源昌寺に葬られた。 維新前後自らを運命の翻弄にまかせた型破り日本人だった。 戒名は全生院明道義白居士、墓碑銘の七言絶句に生涯が要約されているという。

 『福翁自伝』に、こうある。 ロシアで接待委員の人々と懇意になって、種々さまざまな話をしたが、接待委員以外の人からロシアに日本人がいるという噂を聞いた。 それは公然の秘密で、名はヤマトフと唱えている、会ってみたいと思ったが、逗留中会えなかった。 接待中の模様に日本風のことがある。 たとえば室内に刀掛けがあり、寝床(ベッド)には日本流の木の枕があり、湯殿にはぬか袋があり、食物も日本調理の風にして、箸茶碗なども日本の物に似ている。 どうしてもロシア人の思いつく物ではない。

 松沢弘陽さんの、新 日本古典文学大系 明治編『福澤諭吉集』『福翁自伝』校注には、橘耕斎として、こうある。 職務上の過ちのため脱藩、伊豆戸田村に滞在中、同地で安政大地震のため大破した乗艦の代船を建造中のロシア使節プチャーチンの一行を知り、中国語通訳官ゴシケビチのすすめで、国外に脱出し、1856年ごろペテルブルグに到る。 1857年ゴシケビチを助けて『和魯通言比考』を刊行、受洗してウラジミール・ヨシフォビチ・ヤマトフ(大和夫)と改名し、ロシア外務省通訳官やペテルブルグ大学日本語教師を務めた。 明治7年帰国、増田甲斎と名乗り、仏門に入った。 「西航手帳」文久2年閏8月2日(1862年9月25日)の条にフランスの友人ロニからペテルブルグで「橘耕斎」に会ったことを聞いたと記す(『全集』19、105頁)から、福沢はヤマトフの本名を橘耕斎であることをペテルブルグ滞在中には知ったのではないか、と。(福沢のサンクト・ペテルブルク滞在は、1862年8月9日から9月17日。文久2年閏8月2日は、1862年9月25日で、福沢は9月22日からパリに戻っていた。)

「群星訃2023」「惜別」の加藤秀俊さん2024/01/08 07:15

 訃報も見逃していたので、確かなことは言えないが、加藤秀俊さんの追悼記事や評伝が朝日新聞に出ないのを残念に思っていた。 それが12月27日になって朝刊文化面の「群星訃2023」という追悼をまとめた記事で、ようやく取り上げられたのを読んだ(藤生京子記者)。 見出しは「「大衆」を見つめて 社会をあぶり出す」「アカデミズムのよろい脱いで」。 加藤秀俊さんのほか、米文学・比較文学者の亀井俊介さん(8月18日死去・91歳)と、私はお名前を知らなかった社会学者の立岩真也さん(7月31日死去・62歳)。

 「社会学者の加藤秀俊(9月20日死去・93歳)が大学のゼミで流行歌の分析を始めた戦後まもない頃、大衆文化研究は「まとも」とはみられていなかったという。それが1954年に留学した米国は一転、自由闊達な議論であふれていた。迷わず進路を決めた。

帰国後の57年、「中間文化論」を発表し、高級文化と大衆文化のあいだの新しい動きをとらえて注目された。メディア、人間関係、教育に未来学まで関心は幅広かったが、80歳を過ぎて恩師D・リースマンの「孤独な群衆」を改訳するなど大衆文化論はライフワークだったのだろう。それだけに、手厳しくもあった。「社会は誰が動かせるわけでもないよ」と、諦念めいた発言が耳に残っている。」

亀井俊介さんの鶴見俊輔さんとの共著『アメリカ』(文藝春秋・1980年)は、書棚のどこかにあるはずだ。 「亀井俊介も大衆文化研究への接近は米国体験だ。ホイットマンを研究した59年の留学の10年後。ベトナム反戦や公民権運動を機にした「文化革命」に刺激を受けた。/73年に再び渡米、各地を旅しながらサーカス、西部劇、ターザンなどの資料を集め、調べた成果が「サーカスが来た! アメリカ大衆文化覚書」である。アカデミズムのよろいを脱いだ自由な筆致は、エッセーとしても高く評価された。」

6日に、ここまで書いたら、朝日新聞夕刊「惜別」に「名文家で知られた社会学者 加藤秀俊さん」「妻へのみやげは『ラブレター』」が出た。(桜井泉記者) 「まがうことなき知の巨人」、「無境界主義の教養人」。近しかった人たちは、そんな言葉で見送った。戦後日本の大衆社会を分析し、メディア研究者としても活躍。教養書では芸能や人生論を平易な文章で論じ、テレビや講演で好評を博した。」