「食料自給率」と、これまでの歴史2024/07/16 07:06

 小林奎二さんは、この本での「食料自給率」の定義をはっきりさせる。 役所などの出す「食料自給率」という数字は、食料をカロリーで統一して扱うもの、最後の販売価格で扱うものなどが乱立している。 これらによると、今の日本(2021年)の食料総合自給率は、カロリーベースで38パーセント、生産額ベースで58パーセントである。 食料生産の専業世帯でも、自給率が100パーセントになることはまずありえない。 この現実を捉えて自給率を定義しようとすれば、「コスト(価格、原価、経費)」で考えるのが現実的であろう。 そこで、小林さんは、自給率とは、最終的に販売する食料の価格Aについて、何らかの形で外国に支払われる経費B、そうでない純国内で循環する経費Cに分けると、分子はC=A-B、分母はAと、定義する。 この定義に従うと、今の日本の自給率は、30パーセントくらいか、もっと少ないかもしれない、という。

 大和朝廷を中心に国らしくまとまる以前から何千年以上もの間、日本は自給自足の国家であった。 徳川時代260年の政策は限りなく自給自足に近く、完全自立に近かった。 生活は良くなり、食生活も少しずつ改善され、人口は増加の一方だった。 庶民の間でも徐々にではあるが、主食が麦、稗、粟から米に変わっていき、そのため特に後期では食料増産の必要に迫られ、灌漑などの大事業も伴って新田の開発が行われた。 昭和一桁頃の東京で、市電の終点の新宿三丁目から牛込方面への一つ目か二つ目の停留場は「新田裏」だった。 一つの新田が江戸の中心のすぐ西にできたのだろう。 (馬場註・『日本鉄道旅行地図帳』5号「東京」(新潮社)によると、「新田裏」は「四谷三光町」についで二つ目、大正3(1914)年5月7日開業)

 軍国時代とその後。 小作制度は依然として続き、都会に住む者との格差は歴然だった。 農家は増加した人口の行き場を失い、満蒙に向けられた。 食糧事情だけでいえば、こうでもしなければ全国民が食べていけなかった。 このときすでに、日本は食料自給自足が全くできていなかった。 敗戦後、GHQは日本の民主化を強要し、その一つに農地解放があった。 江戸期以前からの農業制度を芯から変える画期的なものだったが、農村を都市住民と同じに扱おうとした結果、今日にまで及ぶ混乱を残している。 国の自給可能な食料生産体制の構築を考慮すべきだったが、今になってみると国家百年の計は、結局アメリカ式の商業ベースに組み込まれてしまった。

 高度経済成長期が始まると共に、食産業に対する国の本腰の助けはなくなり、やがて農村衰退の時代に入る。 都会の働き手の不足はもっぱら農村人口に頼られた。 農村は疲弊し、過疎化し、貴重な農地は放棄され続けている。 多くの食料生産家庭は、価格競争に負けて、収入を求めて都会に走り、農村の過疎化は耕作地の減少にもつながり、食料の生産量は減少の一途をひた走っている。

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