捨松、ベーコン家で成長し、名門女子大を卒業 ― 2026/06/24 06:31
ホストファミリーのベーコン牧師の家では、捨松と永井繁子が一緒だと英語の勉強が進まないことがわかり、一週間ほどで、繁子はフェアーヘイヴンのアボット牧師の家に預けられることになった。 捨松は、ベーコン家の人々の暖かい愛情に包まれて、ニューヘイヴンでの生活に見事に順応していった。 二歳年上の末娘のアリスとはすぐに打ち解け、姉妹のように仲良くなった。 近所に同じ年頃の遊び友達もたくさん出来、とくに向かいのエール大学のホイットニー教授の娘マリアンとは毎日のように誘い合っては一緒に勉強したり遊んだりした。 捨松にとって幸運だったのは、生来の素質に加えて、あの広いアメリカの中で、最も教育文化の高いニューヘイヴンという小さい町の、しかも質素で信仰心の篤いベーコン家に預けられたことである。 この恵まれた環境がなかったならば、捨松は知性に富んだソフィスティケートな娘には成長していかなかったであろう、と久野明子さんは書いている。
1875年9月、16歳の捨松は、無事近くの男女共学の公立高校ヒルハウス・ハイスクールに入学し、自由な高校生活を送る。 19歳になった捨松は、1878年9月ニューヨーク州ポープシキーの名門女子大学ヴァッサーカレッジに、永井繁子とともに入学する。 1865年の開校以来13年、初の東洋からの留学生だった。
捨松は、ヴァッサーで過ごした四年間の寮生活をこよなく愛した。 成績は、常にトップクラスで、二年生の時にはクラス委員長に選ばれている。 捨松の同級生たちは、捨松の死後、そのゆかりの品を集めて、同窓会館の中に「大山公爵夫人メモリアム・ルーム」をつくった。 1881年の春、捨松、梅子、繁子のもとに、日本政府から帰国命令が届いた。 捨松は、あと一年で学士号が、梅子もあと一年で高校卒業の資格が得られる、二人は留学期間延長を願い出て、認められる。 繁子は、ヴァッサーの芸術学部を8月に卒業したので、帰国した。
1882年6月、捨松は十人の卒業生代表の一人に選ばれ、見事な刺繍の着物姿で「イギリスの日本に対する外交政策」という演説をした。 列強によって取り決められた治外法権の内容を説明し、貿易取引でも有利な立場にあるが、日本はイギリスやヨーロッパ諸国に抵抗し、けして植民地にはならないと述べて、英国から独立したアメリカ国民の愛国心をくすぐり、日本の国への同情を集めた。
捨松は、その後2か月間、ニューヘイヴン病院付属のコネティカット看護婦養成学校に入学した。 1882(明治15)年10月、足掛け12年間のアメリカ留学を終えた捨松と津田梅子は、ニューヨークを発っていよいよ帰国の途についた。 すでに捨松は23歳、梅子は19歳になっていた。
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