エンタツ・アチャコの「早慶戦」 ― 2026/03/08 07:34
エンタツ・アチャコの「早慶戦」を、少し見てみよう。
アチャコ…早よう出かけたんやけれどもなあ、満員でまァようような、ファースト側に座ったんやが、君はどこにおったんや。
エンタツ…僕もいったところが、どこも座るところがないからね、ようよう、セカンド側に割り込みました。
アチャコ…セカンド側? そんなとこ入られへんや。
エンタツ…その入られへんのをね、特別入場を許されて……。
アチャコ…そんな無茶なことできるかいな。
エンタツ…それでも僕は、真ん中に座ってましたよ。
アチャコ…ホー、それやったら君、外野やないか。
エンタツ…あっ、そうそう外野ですわ。
アチャコ…たよりないこというてんなあ。
エンタツ…しかし、おもしろかったねえ。
アチャコ…そりゃ、君、早慶戦というたら、なんというても日本一の試合よってになあ。
エンタツ…はあ、実際おもろかった。しかしね、僕は、あの、ちょっとわからんとこがあるのやがなあ。
アチャコ…ほう?
エンタツ…早慶の相手は、あれ、どこでしたいな。
アチャコ…なに! 早慶の相手?!
エンタツ…ええ。
アチャコ…君、早慶戦のこというてんのやろが。
エンタツ…ええ。だけどね、早慶対どこそこというでしょ?
アチャコ…そんなたよりないことよういうてんなァ。早慶戦とはやねェ、つまり、早慶……早稲田対慶応の試合をもって、これ早慶戦というのやがな。
エンタツ…そんなことぐらい、わかっとるわいな。早稲田と慶応の試合を早慶戦というのやろ。
アチャコ…ちょっともわかったれへんが、心細いなあ。
エンタツ…いや、わかっとる。これでも野球通ですからなあ。
アチャコ…そんな、たいそうに。
「笑いの素研究所」から「漫才学校」へ、秋田實の「漫才」〝戦略〟 ― 2026/03/07 07:04
秋田實がエンタツと出会った昭和6(1931)年」ごろから、大阪に帰る昭和9(1934)年ごろは、都会の生活様式に「洋式」がとり入れられて変化を見せる時期だった。 エンタツ・アチャコが舞台に洋服で出て漫才をしたのも、はじめてではあったが、そういう時代の風俗的変化を背景にしている。 とはいっても、女性の「洋装」はまだ珍しいことであり、「洋食」もまたそうではあり、「低級な」漫才師が、ホワイトカラーの象徴である背広姿で舞台にあらわれるのは、「漫才」の階級上昇、少なくとも「向上」をめざすことをあらわしている。 江州音頭や河内音頭の自慢のセミプロが舞台に立っていた、初期の「万才」では、たいてい着流しで、なかには浴衣に三尺帯というだらしない姿の者もいたが、それを紋つきハカマにしたのは砂川捨丸だったという。 衣装の点でははっきりと「萬歳」から離れようとしているのがわかる。 男女のコンビができるようになると、男は紋つきハカマ、女は裾模様ときまっていった。
平井巳之助という人が昭和5(1930)年に東大を卒業して大阪に帰った秋に、秋田實は丸善のちかくのバラックのような二階建ビルの一室に「笑いの素(もと)研究所」なるカンバンを出して、京大文学部の学生ふたりを雇い(?)、新聞の切り抜きの分類や整理をさせ、笑いの資料のインデックスをつくっていたという。 藤沢桓夫も、心斎橋のその部屋のことを回想していて、学生のひとりが後に吉本に入った吉田留三郎だった、と。 秋田には特高がつきまとっていたというから、「笑いの素研究所」のカンバンは、秋田の、官憲への戦術的なものがあったのかもしれない。 秋田が、エンタツと会う以前にすでに、それまで集めてもっていた笑いに関する資料を整理し、新聞を綱目別に切り抜いて、「笑いの辞典」のインデックス、たとえば「ヒコーキ」というテーマで笑いのコントを書こうとする時の便宜のために、「ヒコーキ」に関するニュースやデータを分類していたらしいのは、注目していい。 秋田が、「笑い」を「笑いの素」に分析し、それを組み合わせることで新しい笑いをつくり出す帰納法、「笑い」と「笑わせ方」に強い興味を抱いていたことがわかる。 (私はここを読んで、この一連の秋田實についてのブログが、司馬遼太郎『この国のかたち』の「索引」を自作したノートを見つけたことから始まったのを思って、感慨深いものがあった。)
秋田が昭和9(1934)年に吉本興業に入ると、エンタツが「低級」だといった漫才師たちに、秋田の笑いのネタはことのほか喜ばれた。 こんなに大勢の人達に親しまれるのは生れてはじめての経験で、その信頼にこたえるために夢中になった。 一日中いつも誰か漫才師と舞台の話をし、毎夜のように誰か若い漫才師を家に連れ帰った。 自分の提供するネタ(理論)が漫才師に使われる(実践)と、結果はその日の舞台でわかる。 そのネタが受ければ、これほど楽しいことはない。 漫才と漫才師の変革(それらへの仕掛けも)を、即刻、自分の目で見られるのだ。
だが60組に余る漫才師の全部のネタの相談には応じられない。 秋田の身体と時間の奪い合いとなったので、日に一回、集まってもらって、小さい1、2分のネタだったが、時事のニュースや色々の笑話や小咄を、希望に応じて配給する「ネタのセリ市」を開くことにした。 「ネタのセリ市」は、のちに発展的解消して、「第一回新作発表漫才研究会」(昭和11年2月)となった。 漫才作者でなく吉本の一社員、編集者林廣次の名で、雑誌「ヨシモト」が、昭和10(1935)年8月に創刊された。 その二年後には、吉本興業に漫才の新人養成機関「漫才学校」を提案し、実現している。 同じ頃、マンガ家の平井房人との共同編集で漫才台本集を次々と大阪パック社から出している。 こうして見てくると、秋田實の「漫才」への〝戦略〟とでもいうべきもの、いや、戦略家としての秋田の才能が見えてくるといった方がいいかもしれない、と富岡多恵子さんは書いている。
秋田實の親友、長沖一(まこと)のこと ― 2026/03/06 07:12
富岡多恵子さんの『漫才作者 秋田實』に、司馬遼太郎さんが登場する。 司馬さんは、「昭和5年からの手紙――長沖一とその世代環境」(「中央公論」昭和56年10月号)に、甲種合格で何度も軍隊に「とられた」長沖一(まこと)が軍隊体験を書いた小説「肉体交響楽」を、藤沢桓夫が「中央公論」の編集長のところへもっていったが、昭和5(1930)年当時、雑誌に載せるのはむずかしいと長沖に返されたことを、書いていた。 当時、「中央公論」から武田麟太郎、林房雄、丹羽文雄等の新進作家がデビューしていたことを思えば、ここに長沖の作家的不運があった。 「幻の名作」となった「肉体交響楽」は、藤沢桓夫が長沖の遺族に探させて、50年ぶりに「中央公論」に載せるようにはからった。 (秋田、藤沢、長沖の関係は、2月28日の当日記参照。) 長沖一は、秋田の手引きで雑誌「ヨシモト」の編集のために吉本興業に入り、昭和25(1950)年BK(NHK大阪)がエンタツを中心としたバラエティー「気まぐれショーボート」をはじめた時、秋田と共同で作・構成を担当した。 私は子どもの頃に聴いていた、その後の、アチャコと浪花千栄子の「お父さんはお人好し」を長沖一作と覚えていた。
司馬さんは、昭和31(1956)年に新聞記者で、長沖一の家にいったら、帝塚山の長屋の一軒で、家の外から老人が風呂に薪を割りながらくべていた。 長沖(当時52歳)と思い違いしたが、そのひとは長沖の父親だった。 維新で没落した加賀藩士の子で、先代が綿屋でこしらえた家作の家賃で食いつないでいたのである。
長沖一は、庄野英二との「わが有為転変」と題された対談で、自分は「水の流れに沿って泳いでいくタチ」といっていて、ガムシャラに他人を押しのけたり、自己主張したりしたことはない。 司馬さんは、「ただちょっとした可笑しさは、その質樸な性格とうらはらに秀麗すぎる容貌をもち、文字どおり痩身長軀で、姿がよかったことだが、しかし自己愛(ナルシシズム)がまったくなかったか、それとも屈折していたのか、自分自身の外観も空気のように思っていたらしく、たとえば女性についてのトラブルも一度もなかった。結婚も晩かった」と書いている。 長沖は、見合いをしてもことわると相手を傷つけるといって、はじめて見合いした相手と結婚したそうである。
私は、庄野潤三を愛読しながら、その帝塚山学院との関係を知らなかった。 富岡さんは、大阪には、作家の庄野英二、庄野潤三兄弟の父庄野貞一の創立した女子の私立学校、帝塚山学院がある、と書いている。 長沖一はそこに戦後新しくつくられた短期大学部の講師を頼まれて(井原西鶴を講じていたそうだ)、家から歩いて通っていたが、人望あつく、ついに死ぬ前年には学長にされてしまった。 昭和51(1976)年72歳で亡くなった。
「萬歳」から「漫才」へ、吉本興業と「漫才」 ― 2026/03/05 07:14
一昨日「その年がいつだったか、富岡多恵子さんの書き方は矛盾するのだが、秋田がエンタツ、アチャコと会ったのは昭和6(1931)年」で、秋田實が大阪に帰るのは「昭和9(1934)年」と書いた。 その後の「帰郷――「大阪」の発見」の章を読むと、秋田實はエンタツとの出会いで受けたショックを一方にかかえながら、二年余はまだ東京で左翼活動をしていて、東京と大阪を行ったり来たりしていた。 エンタツによって触発され、大衆に交通する具体的な方法を知らされた、秋田の漫才芸への好奇心、そして漫才の世界は、左翼運動の挫折感を救うのである。 昭和9(1934)年9月の室戸台風をきっかけに、大阪の両親の家に戻った秋田は、吉本興業に入社する。
富岡多恵子さんの『漫才作者 秋田實』を読むきっかけになった、司馬遼太郎『この国のかたち』、自作「索引」ノート<小人閑居日記 2026.2.27.>に、司馬さんは秋田実を「昭和初年に東京大学を出ると、大阪にもどってきて、旧弊なマンザイを一新した人である。万歳を漫才という文字に変えたのもこの人だったと思うが」、と書いた。 昭和6年から9年の東京と大阪の行ったり来たりで、東京大学を卒業はしていないようだ。 「万歳を漫才」についても、富岡本にはこうある。 昭和9年4月25日から三日間、吉本興業は漫才の東京進出をはかって、新橋演舞場で「特選漫才大会」を開いた。 その時つけられた「漫才」という文字は、おそらく東京人がはじめて目にしたものであり、吉本が大劇場にその文字の看板をあげたのもその時がはじめてだったといわれる。 それにふみ切ったのは、吉本の東京での責任者林弘高だという説もある。 というのは、大阪ではすでに、当時吉本興業の宣伝部長(戦後は社長となった)橋本銕彦=鉄彦が、ドル箱のエンタツ・アチャコの新しさを、それまでの「万才」ではないと考えて、「漫才」という文字を使っていた。 芸人にも、マスコミにもすんなり受け入れられなかったが、東京への進出にさいして「漫才」を名乗ってから一般化した。
富岡さんは、「萬歳」から「漫才」へ、という章で、「漫才」の歴史にふれている。 「まんざい」のルーツは13世紀、正月の宮中に参入していた「千秋(せんず)萬歳」と呼ばれるものであった。 年のはじめに神霊がひとの家におとずれて祝福をもたらすという信仰が大昔から受け継がれてきていたから、神の姿にふんする者がひとの家々にきて祝福することが職業化されてきた。 「萬歳」は祝(ほ)ぎごとであり、それをするのはホガイビトである。
「宮中萬歳」が「民間萬歳」となって地方の各地(尾張萬歳など)に広まる。 太夫を賢者、才蔵を愚者と定めて、祝福芸の「めでたい」に「おかしい」が入り込んでくる。 明治時代には、玉子屋円辰や砂川捨丸が小屋掛けや劇場で「萬歳」をやり人気になった。
「萬歳」のカタチはひきずりながらも、実際には宗教性を失って祝福芸とはいえぬ興行萬歳、即ち、ポスト「萬歳」と、まだ「漫才」を意識できぬプレ「漫才」が重なり合っている「万才」の時期があったはずであり、秋田實がエンタツに出会った昭和6(1931)年には、まだ「漫才」の文字がなかった、プレ「漫才」の時期だったのである。 「漫才」という文字=命名は、エンタツ・アチャコの出現が、橋本鉄彦の宣伝マンとしての才能を刺激して生み出されたといっていいだろう。 エンタツ・アチャコは、それほどに、「萬歳」とはもちろん「万才」とも異なるものをもっていたということになる、と富岡多恵子さんは書いている。
秋田實の漫才台本と、エンタツの実演 ― 2026/03/04 07:14
――君、バカに嬉しそうな顔、してるな。
――ちょっと嬉しいことがあったんや。
――何が、そんなに嬉しいのや?
――実は僕、もろうたんや。
――え、そうか、ちっとも知らなんだ、そうかァ、もろうたんか。
――そうや、到頭、もろうた。
――で、改まるようですが、一体、何を君もろうたんです?
――エッ、男がもろうたと言うたら、大抵きまってるやないか。
――君のことやから、わるいものはもろうとらんと思うのやが、ものは何です?
――しっかりしてくれ、嫁はんをもろうたんや。
――嫁はんを?!
――そうや、嫁はんをもろうたんや。
――誰の嫁はんを?
――人の嫁はんをもろうて、どないするねん。娘さんやがな。
――娘を?
――そうや。
――酋長の娘?
これを、エンタツは舞台で工夫して、まず次のように変えた。
――家賃を負けて貰うたんですか?
――家賃位で、こんな嬉しい顔が出来るか。
また「もろうた」から、次のようにエンタツは変えた。
――男がもろうたといえばきまってるやないか。僕が何もろうたか、分からんのか?
――かまぼこですか?
――かまぼこ、もろうた位で、大の男がこない喜ぶか。
――顔の美しさやなんて、すぐに色褪せてしまう。絶対に顔に惚れたらあかん。
――惚れるなら、背中や。
――何で、背中に惚れるねん?
――やいとの跡が美しい!
秋田の台本(文字)を実際に客の前に立ちあがらせていくエンタツの言葉には、「家賃」や「かまぼこ」や「やいとの跡」など、日常生活の現実感が付加されていた。 秋田の台本が出来上る度に、エンタツは子供のように卒直に感激したので、秋田はエンタツを喜ばせるために、夢中になって新しい台本を書いた。 それをエンタツが舞台でどのように消化するか、それが一番の楽しみだったという。 「よく勉強の出来る友達同士」のように、互いに負けまいと頑張り、互いに尊敬し合っていた。 互いに、互いの無いものを持っていたのである。 ここに、秋田とエンタツが出会った幸運、いや幸福がある。
富岡多恵子さんは、秋田がエンタツから受けた感動は、一種の自己批判を秋田にもたらしたのではないか、と指摘する。 つまり、エンタツにある観客という大衆に触れている実感を、秋田がつかみえていないということ、それはたんに、漫才という芸能の技術の問題をこえて、もっと広い、ひとびとの生活の実感に無智であるとの感覚だったのではないか。 秋田が、漫才作者になったのはエンタツとの出会いによるのだと、のちにくり返すのは、この認識の確認、またその表明ではなかったのか、と。
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