ギターと詩と本と小説と絵、長坂誠の三十代2024/11/19 06:58

 長坂誠の朝は早い。 最初は大谷翔平の試合を観るための早起きだったが、いつの間にか自然と五時には目覚めるようになってしまった。 今では出勤前のこの二時間弱こそが、自分が自分でいられる貴重な時間となっている。

 何をするか? ギターを爪弾きながら小声で歌う。 ギターはもう三十年以上も前に中古で買ったギブソンのハミングバードで、何度引越しをしても、決して手放さなかった愛器である。 これを爪弾きながら、自分で書いた詩に曲をつけてみたりする。 例えばこんな詩だ。 孤独さえも/おれを見放す/そして本当に/一人きりになってしまった/未来に出会うはずの人たちと/おれはすれ違ってしまったのだろうか

 あるいは本を読む。 上京したばかりの頃は、フィリップ・K・ディックばかり読んでいたが、その後一年かけてカフカの『城』を読んだり、高校時代に夢中になった大江健三郎を読み耽ったりした。 読むと必ず自分でも何か書いてみたくなり、原稿用紙に万年筆を走らせるのだが、十枚も書かないうちに筆が止まるのが常である。

 それからもう一つ、これが本筋なのだが、長坂誠には絵を描く才能があった。 岡山にいた五十代の頃には、納得のいく百号の絵を三枚描いた。

 ギターと詩と本と小説と絵。 どれもこれも得意だが、どれもこれも中途半端だ。 しかし「人生の価値は、何を成し得たかではなく、何を成そうとしていたかで決まる」という言葉もある。 その意味において、長坂誠の人生には確かな価値があると言えよう。

 長坂誠は23歳の時、渋谷のデザイン専門学校で同い年の初美と知り合い、三年ほど同棲して28歳で籍を入れ、インドへ新婚旅行をした。 バブルが弾ける前で、二人は乃木坂のマンションのワンルームを借りて、デザイン事務所を始めた。 最初は景気がよかったが、バブルが弾けて、どうしようもなくなった。 31歳の時、お互いの浮気が発覚して、大喧嘩になり、初美は出て行った。 一年後、離婚届が郵送されてきて、「平成5年10月2日午後4時35分、離婚が成立しました!」と、豊島区役所の職員は、腕時計を見ながら嬉しいことでもあったように宣言した。 長坂誠は、深く傷つき、すっかり沈み込んで、自暴自棄になった。 やがて仕事も住処(すみか)も失い、酒とドラッグに溺れた。 どうしようもない三十代の自分を、おきざりにした。

 2000(平成12)年12月27日、長坂誠は高速バスで大阪に着いた。 使えないカードで膨れ上がった財布には、現金が2007円しかなかった。 左官を中心にした土建屋をやっている父の仁義(67歳)は、古いルーチェに乗っていたが、素人は雇えん、「仕事やこ、その気になりゃあなんぼでもあるじゃろう、西成に行って、立ん坊でもすりゃええが」と言い、アパートを世話し、3万円貸して、「そんだけありゃ、年は越せるじゃろ。ほんならの。気張って生きや」と去った。

「前世がない」上司のいる65歳2024/11/18 07:10

 原田宗典さんの『おきざりにした悲しみは』(岩波書店)。 6月で65歳になった長坂誠は、京王線の中河原にあるオリエント食品の物流倉庫で、フォークリフト班の作業員だ。 中河原から府中まで二駅、府中からバスで武蔵小金井駅へ行き、北口でバスを乗り換えて小平市の外れ、家賃3万8千円のさくら荘21号室へ帰る。 2023年8月1日は暑い日、あんまり暑かったのでマスクを外しヘルメットを脱いで、煙草を吸いにいこうとした。 右膝がかくっと言って力が抜け、よろめいて額をぶつけて昏倒し、救急車で病院へ運ばれた。

 六人部屋で横になっていると、5時を回った頃、班長の立林がやってきて、大丈夫か、の一言もなしに、えらい剣幕で怒鳴った。 「困る! 困るんだよなあ、長坂さん! 695日! 695日無事故できたんだよ! それを何! 頭なんか打って! 台無しじゃない!」 四十になったばかりで、正社員になるのが夢、仲間に厳しく、口を開けば文句ばかり言っている立林は、煙草禁止、明日は出てきてくれなくちゃあ困る、シフト組んでるんだから、と言って帰って行った。

 「何だいありゃ? 気違いかい?」 隣のベッドの八十代のおじいさんが言った。 「ありゃあ、前世がないな」 「前世?」 「人間やるの、初めてなんだよ。前世はずうっと虫とか獣とか草とかでね。人間になったのは、今回が初めてなんだな。だからあんなふうなんだよ」 「なるほど。ありがとうございます。いい話を聞きました。何かこう、救われた感じがします。」

 老人に年などを聞かれ、家族はない、一人者で、故郷(くに)の岡山に母親と妹がいると答えた。 「わしゃあ広島じゃ。そりゃあええが、帰る所があるいうんは、ありがたいことじゃが」 母光枝は89歳、妹のみどりは一つ年下、岡山市郊外の市営住宅で慎ましい暮らしをしているが、もう三年も帰省していない。 あそこが自分の帰る家なのかと思うと、胸が締め付けられるように感じる。 不甲斐ない自分が、嫌になる。

原田宗典『おきざりにした悲しみは』宣伝に完敗2024/11/17 07:46

 原田宗典さんが『図書』に書く『果敢なくもなく』は、どうも不定期連載らしい。 「果敢」は、『広辞苑』に「決断力が強く、大胆に物事を行うさま」とある。 その二重否定だから、「まあ、果敢に行きましょう」ということか。

 11月号は巻頭に置かれ、「私よ 母の車椅子を押せ」という題だ。 二月、93歳の母親が、電気アンカで低温火傷をした。 車椅子に乗せ、タクシーで、近所のK病院の皮膚科に行ったら、糖尿病があるので、かかりつけのE病院に入院したほうがいい、と言われた。 一週間で退院したが、傷の洗浄は毎日やり、週に一度K病院に通院するようにと言われた。 傷の洗浄は原田さんの担当、その度に「すまないねえ」と詫びては、ちぢこまってしまうので、何故か腹が立って、「あやまらなくてもいいんだってばー」と声を荒げてしまうのだった。 三月、四月、五月、六月になっても、母親の足の傷はよくならなかった。

 そんなある週の金曜日、午後1時からK病院の皮膚科の予約をしていたのに、突然のゲリラ豪雨で、タクシーもつかまらず、電話して予約を水曜日に延ばしてもらった。 水曜日は好天、車椅子日和で、上機嫌で車椅子を押し、15分ほどのK病院を目指した。 ある詩句が、ふと頭に浮かんだ。 <母よ 私の乳母車を押せ> 誰の詩だったろう? 読んだのはおそらく高校生の時だ。 強烈な印象があったのを覚えている。 草野心平? それとも三好達治だったか? 定かではない。

 K病院に辿りつき、母を診察室に送り出した後、待合室でスマートフォンで検索すると、すぐに<三好達治 乳母車>と出てきた。  母よ――/淡く淡くかなしきもののふるなり/紫陽花いろのもののふるなり/はてしなき並樹のかげを/そうそうと風のふくなり  時はたそがれ/母よ 私の乳母車を押せ/泣きぬれる夕陽にむかつて/轔々(りんりん)と私の乳母車を押せ

 K病院からの帰り道、原田さんは母の車椅子を押しながら、心の中で、「私よ 母の車椅子を押せ」と、何度も繰り返し呟いていた。 空の、ずっと高い所から、母の車椅子を押す自分の姿を、誰かが見下ろしているような気がした。

 さて、ここからは宣伝です、と原田宗典さん。 6年ぶりに長編小説を書いた。 タイトルは『おきざりにした悲しみは』、岩波書店から11月8日発売、吉田拓郎の歌「おきざりにした悲しみは」をテーマソングにした。 16歳の頃から、小説を書いてきた。 いつの日か、水のような文体を手にいれたい。 その文章で、生きているものを書いてみたい。 それは、きっと励ましに満ちた物語で、読み終えた人の胸を一杯にするものになるはずだ。 そんな小説を、いつか書き上げてみたい。 それから50年、ようやくその夢が叶いました。 『おきざりにした悲しみは』は、僕にとって夢の小説です。 どうぞ読んでみてください。

 原田さんのお母さんは、この小説を三日かけて読み終えて、号泣していた。 「あんた、やったねえ! 本を読んで、こんなに感動したのは初めてだよ。いいもの書いたねえ」と褒めてくれた。 皆様もぜひ、ご一読のほどを。 面白さは、この作者が保証します。

 私はこのキャッチエッセイに、すっかりやられて、『おきざりにした悲しみは』をAmazonで予約し、11日に入手、12日までで読了したのであった。

原田宗典さんの「読書ということ」2024/11/16 07:08

 私は、原田宗典さんという作家を知らなかった。 当然、作品や本も読んだことがなかった。 岩波書店の『図書』9月号で、「読書ということ」というエッセイを読んだ。 「日曜日、高校時代からの友人、HとNと三人で、久しぶりに会った。」と始まる。 新橋の方にある煙草が吸える喫茶店に行って、原田さんが文学と煙草は似ている、という話をしたら、Nがこう言った。 「そういえば最近さあ、電車の中で本を読んでる人、増えたと思わない?」 「そういえば今日、半蔵門線の中で、七人掛けの席に座っている人のうち、三人が本を読んでいたなあ」と、原田さん。 三人が本、二人がスマホ、残りの二人は目をつぶっていた。 本がスマホに勝ったという気がして、何だか嬉しかった、と言う。

 原田宗典さんは、二十年ほど前、早稲田のカルチャー講座で、三カ月だけ講師を務めたことがあって、小林秀雄の話ばかりしていた。 すると、生徒の一人がやってきて、こんな話をしてくれた。 「今日、ここへ来る時、地下鉄の中で小林秀雄の文庫本を読んでいたんです。そしたら、僕の目の前に座っていた老紳士が『君、小林先生の本を読むなら、座って読みたまえ』と言って、席を譲ってくれたんです」

 Hは、最近二十歳の頃に読んだ本を再読していると言って、鞄の中からトインビーの歴史学の本を出し、「この年になって読むと、また全然趣きが違うんだよなあ」と言った。 Nは、最近大江健三郎の『性的人間』を四十年ぶりに読んだが、「まったく何も覚えてなくて、こんな話だったのか、と驚いたよ」と言う。

 三人でそんな話をしているうちに、原田さんの脳裏には、読書とは何か、という素朴な疑問が浮かんできた。 同時に、それに対する答えらしきものも彷彿とする。

 名文家として知られる英文学者の福原麟太郎の随筆に、こんなのがあった。 自分のもとには毎日、毎週、毎月沢山の本や雑誌が送られてくる。 とてもじゃないけどそのすべてを真剣に読む時間はない。 だから自分は、一応読み始めて、面白くなくなったらすぐに放り出して、別の一冊を読むことにしている。 一冊の本を読み終えることが読書ではない。 本を読んでいる時間を指して、読書というのだ。

 最後に原田宗典さんは、もう一度言う。 読書とは、一冊の本を読み切ることではない。 読んでいる時間を指して、読書というのである。

田中優子さんの「本を読まない・読めない」人びと2024/11/15 07:09

10月18日刊行の、田中優子さんと松岡正剛さんの岩波新書『昭和問答』のあとがきで、田中優子さんがこういうことを書いている。

「『昭和問答』は、明治から終戦まで77年間に及ぶ時代をたどった。そして戦後、国民は武力を放棄し、戦力を保持しないことを決め、それを憲法に明記した。その日本国憲法施行から今年、2024年まで、やはり77年経った。/その2024年7月、じわじわと進んできた「新しい戦前」はその姿をはっきり見せるようになり、その過程を許してきた国民がどういう人たちなのか、その姿も見えてきた。それは、「本を読まない・読めない」膨大な数の人びとだった。東京都知事選では、政策をもたず、語らず、議論しない候補者が多くの票を集めた。ほとんどの都民は政策を出しても理解できず、長い話を聞くことができないからだという。」

「在日米軍は統合軍司令部をつくり、自衛隊は米軍との連携のための統合作戦司令部を設置することになった。いよいよ日本は、主権の一部を米国に渡すことになる。いま九州では日米の合同軍事訓練が行われており、沖縄では避難シミュレーションがつくられている。「新しい戦前」は米国と戦う戦前ではなく、米国支配下の戦前なのだ。」

「2015年の集団的自衛権行使容認、2020年の日本学術会議会員任命拒否、2022年の「安保三文書」による、敵基地攻撃能力保有と軍事予算の倍増、学問の排除を含んだかつての戦前とそっくりの経緯が、展開している。」

「この本の冒頭で私は、「なぜ戦争から降りられないのか?」「国にとっての独立・自立とは何か」「人間にとって自立とは何か」という問いを置いた。40年も教育にたずさわったが、一斉教育を全面的に切り替えることはできなかった。本を読み文章を書き、考え、自分の言葉を発見し、他者とともに語り合う。そういう機会は、自分の設定した少人数授業のなかでしか、実現できなかった。結果的に、本など読まず時間をかけず、効率的に社会的な地位を得る競争に邁進する世の中になった。ますます競争から降りられず、ますます大樹に依存して、自立からは程遠くなった。」

「それでも私は、松岡正剛のつくってきた編集工学研究所の仕組みと、その私塾であるイシス編集学校に、望みを託している。なぜならそこでは、本を読むこととみずから書くことのなかに、絶対とも言える信頼を置いているからだ。「千夜千冊」は1850冊を数えた。つまりは1850の扉をもっている。その扉の前に立ちその扉を開けることで、古今東西の無数の本の世界に一歩を踏み出せる。」

「本を読むとは、みずからの座標軸を得ること。それは世界という座標か、宇宙という座標か、無限につづく時間の座標か? 1850の扉の向こうに、さらに扉がつづいていることを、私は知っている。」