巨陶、岩崎小彌太の俳句と高浜虚子2023/03/02 07:02

 「お雛さま 岩崎小彌太邸へようこそ」展の、お雛さまが飾ってある部屋の柱に俳句が二句あった。

   老の眼を細めて見るや雛祭り  巨陶

   招かれて儒者も参ずる雛祭   巨陶

 巨陶は、岩崎小彌太の俳号だった。 以下の話は、『岩崎小彌太―三菱を育てた経営理念』(中公新書・1996年)という著書のある宮川隆泰さんが、三菱広報委員会発行『マンスリーみつびし』1999年7月号に書かれた「志高く、思いは遠く―岩崎小彌太物語 VOL.14俳句・岩崎巨陶」によった。

 岩崎小彌太がいつ頃から句作を始めたのかははっきりしないが、昭和5(1930)年より前の句は残っていないので、この頃だろうという。 時代は世界大恐慌の影響を受けた真っ最中、小彌太自身も執拗な不眠症のためにダウンし、主治医の佐藤要人(三菱診療所長)に静養を命じられていた頃である。 この要人先生、やせて小柄、ややとぼけた雰囲気の内科の名医だったそうだ。 俳号を漾人(ようじん)というホトトギス派の俳人で、社長・小彌太に、心のゆとりを持たせ、精神のバランスを保たせるために俳句をすすめたのであろうという。

 これより先、三菱は丸の内に丸ビルを建設する。 大正12(1923)年に建てられたが、同年の関東大震災で被災、修理して大正14(1925)年に再度完成した。 丸ビルが出来て、最初のテナントを募集すると、ホトトギス・高浜虚子の名があった。 地所部長の赤星陸治は、牛込の家の座敷で箱火鉢にあたり俳句をひねっている虚子のような大家が、この文明の最先端を行く、万事が洋式の丸ビルに飛び込んできてホントに大丈夫か? ともかく一度話をしてみよう、と会ったところ、たちまち意気投合してしまった。 それ以来(大正12(1923)年1月から)、俳句結社ホトトギスは73年後の丸ビル閉館までここに本拠を構えることになったのである。 赤星自身も、俳号を水竹居(すいちくきょ)という俳人だった。

 高浜虚子は、漾人(佐藤要人)から水竹居(赤星陸治)を通して句を見てやって欲しいと依頼があって、岩崎小彌太の句を、句稿20句くらいずつまとめてみることになった。 「最初から初心と思われる句はなく既に一家をなして居られる様な句であった。」「俳号を附けて呉れというので、古陶と言う号を撰んだところが、古の字が気にいらないと自分で巨陶と号されたのである。この<古>を嫌って<巨>を撰んだところに巨陶氏の面目がある」「氏の体躯の偉大であった如く、氏の気宇も亦(また)雄大であった。句を成す上に於て規模が大きくこせこせしない所があった。」

「お雛さま 岩崎小彌太邸へようこそ」展を見る2023/03/01 07:24

 21日に、また静嘉堂@丸の内に行って来た。 静嘉堂創設130年、新美術館開館記念展III「お雛さま 岩崎小彌太邸へようこそ」展である。 丸の内に移った静嘉堂文庫美術館へ行く<小人閑居日記 2023.1.22.>と、福を運ぶ七福神と童子たちの御所人形<小人閑居日記 2023.1.23.>を書き、1月22日に「入口の横に胸像があったのは、岩崎彌太郎と岩崎彌之助だったと思う(彌之助が不確かなのは、展覧会が岩崎小彌太の還暦祝いがメインだったからだ)。」と書いたけれど、胸像は岩崎彌之助と岩崎小彌太だったので訂正する。 「静嘉堂」の創設と拡充をした二人だったわけだ。

 岩崎家のお雛さまは、三菱第四代総帥の岩崎小彌太(1879(明治12)-1945(昭和20))が、孝子夫人のために、京都の人形司、丸平大木人形店の五世大木平蔵に特注し、3年を費やして制作されたものといわれている。 その代金は2万円、現在の1億円という。 1929(昭和4)年に竣工した小彌太の麻布鳥居坂本邸(現・港区六本木国際文化会館)の大広間で披露されたのだそうだ。 その披露の時と同じように、雛人形段飾りの背景に立つ高さ約3mの、明治画壇を先導した日本画家・川端玉章筆≪墨梅図屏風≫(初公開)とともに、展示されている。 このお雛さまは、第二次大戦後、一時は散逸、離ればなれになっていたが、京都・福知山の人形コレクター桐村喜世美氏の目に留まって、数年かけて全15体の雛人形を探し出し蒐集され、長い旅をして、再び離ればなれにならないようにと、2018年静嘉堂文庫美術館に寄贈されて戻って来たのだという。

お雛さまは、「初春を祝う七福うさぎがやってくる!!」展で知った御所人形で、白くつややかな丸顔の童子風である。 顔の大きな内裏雛、三人官女、五人囃子、随身(左大臣(左近中将)、右大臣(右近少将))、仕丁(笑い上戸、怒り上戸、泣き上戸)。 着物や雛道具には、当時の工芸技術の粋を集め、精緻な刺繍や漆芸、彫金の技を用いて、岩崎家が家紋の代わりに用いた「花菱紋」が見られる。

 雛道具は、几帳、雪洞(ぼんぼり)、菱台、桜・橘、三方瓶子(お神酒入れとその台)、高坏(たかつき、食物を盛る脚つきの台)・行器(ほかい、食物をはこぶのに用いる木製の容器)、掛盤(晴の儀式に用いる膳の一種、食器をのせる台)・飯器・湯桶、小袖箪笥・衣装箪笥、座布団・布団、長持・挟箱、楽器(龍笛・篳篥(ひちりき)・笙・六弦琴・箏(こと)・鉦鼓(しょうこ)・楽太鼓・鞨鼓(かっこ、木製の胴と2枚の革面を調紐で締めたものを台に据えた打楽器)、楽器(三味線・胡弓)、書物箱・文台・硯箱、衣桁・振袖、袱紗、長刀(なぎなた)・台笠・立傘。 振袖は、白綸子地合貝(しろりんずじあわせがい)桜橘文刺繍・紅地松に菊桐文刺繍の見事なものだったが、昭和前期の写真から複製したものだそうだった。

 入口に、江戸時代の男雛65センチの大きな立雛(次郎左衛門頭)がある。 次郎左衛門頭とは、引目鉤鼻のまん丸の顔立ち、人形師「御雛屋次郎左衛門」の最高の格式のものだそうだ。 他に、孝子夫人の愛蔵の、市松人形や、五世大木平蔵作の這い這いしている這子人形も展示されている。 市松人形というのは着せ替え人形の一種で、京阪地方で「いちまさん」の愛称で親しまれ、その名は江戸中期の歌舞伎役者佐野川市松に似ていたところから来たという。

『太平記』と「仮名手本忠臣蔵」2023/02/15 07:18

 楠木正成のことは、福沢諭吉にいわゆる「楠公権助論」問題があるのは知っていたが、ほとんど何も知らなかった。 吉川英治の晩年『私本太平記』が、高校時代の昭和33(1958)年に毎日新聞に連載され、杉本健吉の挿絵などを見ていたが、読んでいなかった。 これは平成3(1991)年、真田広之の足利尊氏を主人公に大河ドラマ『太平記』となっているが、これも見ていなかった。

 昨年11月「さようなら、初代 国立劇場」公演の〝歌舞伎&落語コラボ忠臣蔵〟を観て、あらためて「仮名手本忠臣蔵」が赤穂浪士の仇討を脚色し、背景を『太平記』の時代に置きかえているのを知った。 『太平記』の物語は、誰もが知っている常識だったのだろう。 「大序」鶴ヶ岡社頭兜改めの場。 暦応元(1338)年2月伯耆国の大名、塩冶判官高定は、足利尊氏の代参として鎌倉鶴岡八幡宮に参詣する足利直義(ただよし)の饗応役を命じられる。 塩冶判官は指南役の武蔵守高師直から謂れのない侮辱を受け、それに耐えかねて、殿中で師直に斬りつけるが、もう一人の饗応役の大名・桃井若狭之助の家老・加古川本蔵に抱き止められ、師直は軽傷で済む。 大詰めで、山科に現れた加古川本蔵は、高師直館の図面を大星由良之助に渡し、由良之助らは討入、本懐を遂げることになる。 吉良上野介義央を高師直、浅野内匠頭長矩を塩冶判官高定、大石内蔵助良雄を大星由良之助としているわけだ。

 高師直は、南北朝時代の武将、足利尊氏の執事、武蔵守。 尊氏に従って南朝方と戦い軍功が多かったが、のちに尊氏の弟直義らと対立し、上杉能憲の一党のため弟師泰とともに殺された。

 『太平記』を辞書などでみる。 軍記物語、40巻。 作者は小島法師説が最も有力。 文保(ぶんぽう)2(1318)年後醍醐天皇の即位以後、北条高時失政・建武中興を始め、鎌倉末期から南北朝中期までの50余年間の争乱の様を和漢混淆文によって描いたものだという。 第一部、巻1から巻11までは、後醍醐天皇による北条幕府討伐の計画から、その成就、建武政権の確立まで、楠木正成らの動きを軸に描き、完結した物語をなしている。 第二部、巻12から巻21までは、建武政権の乱脈を批判しつつ、諸国の武士の、新政に対する不満を背景に足利・新田の対立、足利の過去の善因による勝利、後醍醐天皇の吉野での崩御までを描く。 残る第三部は、南北両朝の対立、観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)(足利尊氏とその弟直義の政争。一時和睦したが、直義は鎌倉で毒殺された)、直義の死に代表される足利幕府中枢部の内訌(ないこう)から細川頼之の義満将軍補佐による太平の世の到来までを描く。

「朱引内」「墨引」と福沢諭吉の墓2023/02/13 07:12

 俵元昭さんの『港区史跡散歩』に、「土葬が善福寺のある出場限朱引というものの内では禁止されていたかららしい。この朱引のすぐ外に光林寺があった。」とあり、ヒュースケンの葬儀と墓が、アメリカ公使館のあった善福寺でなく光林寺になったのも、福沢諭吉の墓が菩提寺の善福寺でなく本願寺(後に常光寺)になったのも、「出場限朱引」「朱引」に関係するらしい。

 「出場限朱引」で検索すると、慶應義塾図書館文献シリーズの『江戸切絵図 尾張屋清七版 執筆 白石克』が、いくつもヒットする。

『日本歴史大事典』で朱引内(しゅびきうち)を見ておく。 「江戸幕府が1818(文政元)年、江戸の範囲である御府内(ごふない)を示した地図上の朱線内のこと。御府内とは必ずしも江戸町奉行支配場だけではなく、府内の変死者・迷子を掲示する場合(札懸場(ふだかけば)境筋)の範囲や、寺社が堂塔修築の勧化(かんげ)を府内で行う場合(勧化場境筋)の範囲をさすこともあった。これらの境筋を地図上に朱線で、町奉行支配場境筋を墨線で引き、より広い朱線で囲まれる範囲を御府内とした。実際には、東は中川、北は荒川・石神井川、西は神田上水、南は目黒川でほぼ限られる。〈玉井哲雄〉」

 「ウイキペディア」の「朱引」を見ると、上の町奉行支配場境筋の墨線を「墨引(すみびき)」と呼んだことがわかり、「目黒付近で朱引の外側に突出する例外を除いて、朱引よりも更に内側の小さな環状域である」とある。

 「出場限朱引」を画像で検索すると、いくつもの「江戸朱引内図」を見ることが出来る。 どれも「墨引」が目黒付近で「朱引」の外側に突出している。おそらく目黒不動尊の関係だろうと考えられる。 興味深いのは、その地域に福沢諭吉が最初に埋葬された本願寺(後に常光寺)があるということだ。

 「江戸朱引内図」で、「墨引」が「朱引」の外側に突出している地名を見ると、下目黒村と中目黒村である。 上大崎村、下大崎村、臺町は「朱引」の内側だが、「墨引」の外側になっている。 本願寺(後に常光寺)が上大崎村だとすると、微妙な場所になるわけだ。 本願寺に埋葬されたのには、「朱引」よりも「墨引」が関係しているのではないか。 阿佐布町、三田村、白金村、永峯六軒茶屋町は、「朱引」「墨引」両方の内側にある(光林寺が阿佐布町とすると、上の俵説は疑問)。 永峯六軒茶屋町は、都心から白金村を経て目黒不動尊の参詣に向かう今の目黒通り、馬の背のようにだらだらと長い尾根道で「永峯」、茶屋が六軒あったからだそうで、「墨引」の突出とともに、目黒不動尊参詣の賑わいを偲ばせる。

 明治期の「朱引」は、明治2(1869)年、東京府が「朱引」の内側を「市街地」、外側を「郷村地」とし、明治11(1878)年の郡区町村編制法の施行(東京15区の制定)まで続いたというが、明治34年の福沢埋葬の頃はまだ、江戸時代の「朱引」の伝統が残っていたのかもしれない。

福沢家の墓地、竜源寺から常光寺、善福寺へ2023/02/12 07:40

 光林寺から明治通りを渡り、五の橋が工事中なので、天現寺寄りの養老橋を渡って、北里大学の横を三光豊沢商店街のバス通りに出、蜀江坂から雷神山(いかずちやま)児童遊園に上がり、明治坂を下って(その時、思い出せなかった永井荷風の句の季題は、冬空や麻布の坂の上(あが)りおり、だった)プラチナ通りに出、今回のもう一人の当番片山さん推薦のショコラティエ・エリカに寄り、目黒通りを越えて、上大崎の常光寺に着いた頃にはもうヘロヘロ、ずいぶん、くーたびーれた(この後、目黒駅近くに行き昼食、当日の万歩計は15,926歩)。

 上大崎の常光寺、「東京都寺社案内」の概要に「浄土宗寺院の常光寺は、正福山晴冷院と号します。常光寺は、元和元(1615)年芝金杉に大誉上人が開山しました。高輪北町への移転を経て、明治42年に当地にあった正福寺と合併、明治43年に当地に移転し、現在に至っています。」とある。 エーーッ、それでは福沢先生が亡くなった明治34年には、常光寺はここになく、正福寺という寺があったことになるではないか。

 『福澤諭吉事典』の索引から「常光寺」を見ると、いくつかのことがわかった。 今は元麻布の善福寺にある「福沢氏記念之碑」だが、明治6(1873)年、東京における福沢家最初の墓所である三田の竜源寺に福沢によって建てられた。 富田正文先生の『考証 福澤諭吉』(上)も参照すると、竜源寺には、明治3(1870)年5月8日に母の順が死去した時に埋葬し、明治5(1872)年7月に妻のお錦が五度目の出産で分娩した死胎の女児も小さな石碑を建てて埋葬していた。 福沢家の宗旨は浄土真宗で、中津桜町明蓮寺の門徒、竜源寺は曹洞宗の禅寺だったが、竜源寺は藩主奥平家と深い因縁のある寺で、家臣藩士の墓は多く、寺と懇意な藩士たちもいたので、頼んで東京の新墓地としたのだろうという。 その竜源寺、実は今回の散策コースにごく近い古川端にある。 ホームページは龍源寺となっていて、港区三田5-9-23、麻布通りが明治通りへ直角に曲がる古川橋を渡った反対側にあり、(『考証』の曹洞宗でなく)臨済宗妙心寺派である。

 『福澤諭吉事典』の「常光寺」の項、「浄土宗の寺。福沢諭吉が明治34(1901)年から昭和52(1977)年の改葬まで埋葬されていた。元来は芝増上寺の末寺である正福寺(浄土宗)の境内にあった墓地だが、この寺が廃寺となり、隣接する本願寺(浄土宗)が管理していた。/生前、福沢は近辺を散歩中にこの土地が閑静で眺望がよいと気に入り、あらかじめみずからの埋葬地と定め、明治29(1896)年に三田の竜源寺にあった福沢家の墓をこの地へ移した。なお、菩提寺である善福寺は、福沢が望んだ土葬を禁止する区域内(「朱引内」を後で見てみたい)だったため他所を探していたという事情もあった。明治42年、高輪にあった常光寺(浄土宗)が正福寺の跡を譲り受け移転してきたため、墓地の管理も本願寺から常光寺に引き継がれた。」

 「昭和51(1976)年に常光寺が、墓地は浄土宗の信者に限るという管理規定を制定したことをきっかけに、再び福沢家で墓地移転が検討され、「何か不都合が生じたら菩提寺に改葬するように」と福沢が息子たちに伝えていたという話から、善福寺への改葬が決められた。」 昭和52(1977)年5月に発掘、火葬して善福寺への改葬が行われ、「翌年5月、常光寺の福沢埋葬地跡に「福沢諭吉先生永眠之地」と刻まれた記念碑が建立され除幕式が行われた。」