通崎睦美著、京都市下京区『天使突破一丁目』2024/07/22 07:05

 Xの一般社団法人貝合貝覆文化協会の「祇園祭後祭の曳き初め」の動画を見て、「この時期、京都にいたことがあるけれど、暑かったなあ!」と引用コメントした。 京都在住の稲場喜久雄・日出子ご夫妻が、「京都人が読みましても、まことに面白く魅力あふれるエッセイ集です」と、通崎睦美著『天使突破一丁目―着物と自転車と』(淡交社・2002年初版刊行)を贈って下さった。 稲場さんは衛生工学の教授、日本の上下水道の先生W・K・バルトンの研究者で、私が書いた「等々力短信」から、福沢諭吉の『西洋事情』外編のもとになった「チェンバーズの『政治経済学』」の著者ジョン・ヒル・バートンがW・K・バルトンの父親であることに気づかれた、そのご縁以来のお付き合いである。

 通崎睦美さんは、マリンバ奏者だが、アラ・サーの当時、着物に自転車で京都の町を走り回っていた。 まず、題名の「天使突破一丁目」である。 生れ育ち、お住まいのある町名で、何百年も前から使われていて、「てんしつきぬけ」と読む。 高校時代、職員室に呼び出されて叱られたことがある、「冗談はいいかげんにして、本当の住所を書きなさい」と。 現在、朝日新聞一面に「折々のことば」を連載している哲学者の鷲田清一さんは、雑誌で「そういえば、京都の下京の一番古い一角に、僕が京都で一番好きな町名があるんです。天使突破。」とおっしゃっていたのには、こちらがドキッ、とさせられた、とある。

 京都の町は通りが碁盤の目のようになっているので、縦と横の通りの名前を聞けば、その場所の見当がつく。 だから住人は、自分の住所を書く時に町名を省略することが多い。 たとえば、京都市中京区富小路二条上ル、それだけ。 南北の富小路(とみのこうじ)通りと東西に延びる二条の交差点を北へ上ル(あがる)、それがわかれば事足りる。 南に行く場合は下ル(さがる)、東は東入ル(ひがしいる)、西は西入ル(にしいる)。 その後につく町名まで書くと、長くてたいへんだ。 そんな調子だから、京都に地元の人にも知られていない変わった町名が、たくさんある。

 「天使突破」は、その代表的なものの一つ。 この町名は、通崎さんの家の近くにある、五條天神宮(ごじょうてんしんぐう)に由来する。 今はマンション群の谷間に小さくひっそりと佇んでいるこの神社、かつては洛中最大で、清水寺と並び、平安京を守護する役割を担っていた。 普通、天神さんというと、菅原道真を祀っていると思われるが、ここは「てんじん」ではなく「てんしん」。 「天」からの「使」として、国造りに尽力したという少彦名命(すくなひこなのみこと)、そして大己貴命(おおなむちのみこと)、天照大神(あまてらすおおみかみ)の三柱を祀っている。 当初は、「天使の宮」とよばれていたが、後鳥羽天皇時代に「五條天神宮」と改められた。

 この辺り一帯は、五條天神宮の広大な鎮守の森だったが、16世紀後半、豊臣秀吉の京都改造で、町を開くため神社の境内であるこの森の中に道が造られた。 「五條天神(=元、天使の宮)」の境内を「突き抜けて」作られた道。 それが、通崎さんの家の前の道だ。 天使突破通りとよばれていたその名が、今は町名として残っているというわけだ。

娘さんが語る、槇文彦さんの本棚2024/07/21 07:35

 槇文彦さんの長女・坪井みどりさんの「父の本棚」というエッセイが、『代官山ヒルサイドテラス通信』19号(2023春・夏)にある。 坪井みどりさんは、代官山インスタレーションの事務局(1999-2013)を務め、その縁でアートフロントギャラリーに勤務している。 ヒルサイドテラスに住み、働いている。

 子どものころ、槇文彦さんの事務所は日本橋にあり、槇さんは仕事帰りに丸善で、これはという本を買って来てくれた。 その一冊『夢を掘りあてた人 トロイアを発掘したシュリーマン』は、歴史が好きなみどりさんにぴったりで、考古学者になる夢を与え、いろいろな言語の向こうに広がる世界を垣間見せてくれ、大学でフランスに留学するきっかけとなった。 フランスの地方都市のカトリックの女子寮へのダンボールには、父が選んだ、森有正がパリ留学時代に綴ったエッセイ『バビロンの流れのほとりにて』があって、真っ白なカバーの美しい本が、彼の地で奮闘している娘を思う父の姿が想像された。

 槇文彦さんのもとには、建築や都市を中心とした様々な本が著者から送られ、積み上げられている。 それに加えて、自身で新聞の書評欄には丁寧に眼を通し、興味を持った本については書評の切り抜きを持参して代官山 蔦屋書店などで注文していた。 リビングの安楽椅子に座って、コーヒーを飲みながらページを繰り、気になる箇所にポストイットをつけていく。

 近年の槇さんは家では図面を描くことはほとんどなくなり、もっぱら原稿用紙に何か書いていた。 親しい友人に「僕は最近、建築よりも長く世に残っていくのは、文章や本ではないかと思うんですよ」と語っていたらしい。 事実、かたちになった本には、次世代の建築家へのメッセージがこめられている。 オープンスペースへの興味を展開した『アナザーユートピア』は、都市、建築のジャンルで必要なのはディベートだとし、基調となる問題点を投げかけて、16人の執筆者がそれに応えている。

 2021年の夏から、槇文彦さんの蔵書目録をつくる作業が慶應義塾大学SFCを中心に進められた。 欠かさず買っていた『将棋世界』や月刊『選択』など、多岐にわたる分野の本も含め、著者からの献辞や槇さんの書き込み・付箋などが丁寧に記録され、総数は3200冊にのぼることがわかった。 これらの本は、慶應義塾大学内「槇文彦アーカイブ」の一部として、将来的に研究者などに活用されることを槇さんが希望しており、その調整段階にある。 また槇さんは、60~80年代に蒐集した美術作品をアーカイブに寄贈した。 ルドン、ピカソ等の小さな版画、クレー、宇佐美圭司、オルデンバーグやリキテンシュタインなど30点余になる。

ベーゼンドルファー、代官山インスタレーション2024/07/20 07:06

 『代官山ヒルサイドテラス通信』7号、槇文彦さんの「朝倉徳道さんを偲んで」の後半に戻りたい。 ヒルサイドテラスを文化発信の拠点にする過程が書かれているからだ。 父誠一郎さんの没後、代官山ヒルサイドテラス、朝倉不動産の運営は、徳道さん、健吾さん兄弟に委ねられることになる。 槇文彦さんのみるところ、徳道さんの静、健吾さんの動というかたちで、徳道さんが亡くなる昨年(2016年)まで、実に見事に二人のコンビで様々な事業が運営されてきた。 徳道さんは、どちらかというと事業家というよりも文化人であった。 それを象徴する事柄として、ヒルサイドテラスの第一期(A・B棟)と第二期(C棟)の建物の間の駐車場の地下に多目的ホールをつくる計画が1983年頃あった時、「ここで音楽会も」という希望を徳道さんがいち早く出された。 それでホールの音響、控室のあり方、グランドピアノの持込み可能な大型リフト等を当初からホールの設計に盛り込むことが出来たのだ。 (このホールのベーゼンドルファーで、同期のジャズピアニスト佐藤允彦さんに、同期会で演奏してもらったことがある。佐藤允彦さんは『代官山ヒルサイドテラス通信』10号(2018秋・冬)に、「ベーゼンドルファーが生んだ「環太平洋楽」の縁」を寄稿している。)

 第三期の建物(D・E棟)が出来た時、槇文彦さんは健吾さんと、その後のヒルサイドテラスを文化発信の拠点にしていこうと語り合い、徳道さんは強く賛同してくれた。

 『代官山ヒルサイドテラス通信』2号(2014・15秋・冬)、槇文彦さんの「都市に潜在する情景」《代官山インスタレーション回想①》が興味深い。 ヒルサイドテラスを文化発信の拠点にするについて、何よりも心強かったのは、第一期の一角に北川フラムさんのアートフロントギャラリーが移ってきたことだった。 ヒルサイドテラスの誕生30周年を記念して1999年、単にヒルサイドテラスだけでなく、広く代官山地域を対象にしたアートインスタレーションを隔年で行うことになった。 槇さんには、ヒルサイドテラスとその周辺が、住む人達や訪れる人々にとって単に楽しいところであるだけでなく、そこここの場所に潜んでいるパワーをアートというかたちで顕在化できないかという期待があった。 第一回から、そのパワーがユーモアをもって発散され、日常の生活を一層豊かにすることがわかったのだ。

 代官山インスタレーションで、槇さんが印象に残っている作品は、第一回の最優秀賞に選ばれた「地下鉄ヒルサイド駅」、二期の建物の道路に面した外階段がちょうど人の高さに位突き出しているところを巧みに利用して、地下鉄の駅の入り口に見立てたアイディアだ。 駅のサインを見て、本当に駅ができたかと思った人もいて、それがインスタレーションだとわかると多くの人の笑いを誘う、ユーモアがあった。 2007年の最優秀賞は、西郷山公園のいくつかのベンチを、白い8メートルの長い棒から吊って、よくある公園のブランコに見立てた。 それは普段の西郷山の公園の風景を一変させる華やかさをつくり出していた。

ヒルサイドテラスを文化発信の拠点に2024/07/19 07:12

『代官山ヒルサイドテラス通信』4号(2015秋・冬)に、槇文彦さんは「ヒルサイドテラスと代官山―槇総合計画事務所五〇周年に寄せて」を書いている。 昨日のヒルサイドテラスの第一期に関わった事情のあと、槇さんは旧山手通り沿いに30年かけて、結局十棟を設計することになる。 1998(平成10)年にヒルサイドウエストが出来た時には、日本橋にあった事務所をここに移した。 ヒルサイドテラスは槇さんの生活の中で、切っても切れない関係にあるという。

第一期(A・B棟)のヒルサイドテラスが出来て十年程経った頃、朝倉さんご兄弟と、ショップやレストランだけでは面白くない、ヒルサイドテラスを美術や建築の発信地にしようと話し合った。 1982年、鹿島出版会の主催でSDレビューがスタートする。 それは今に続き、若手建築家の登竜門になっている。 1984年、A棟のギャラリーの企画運営を、北川フラムさんが主宰するアートフロントギャラリーにお願いした。 1987年には、音楽会ができるヒルサイドプラザが竣工、1992年には大きな展覧会もできるヒルサイドフォーラムが完成し、徐々にパブリックスペースが増えていった。 そこがさまざまなアクティビティの舞台となった。 1999年からは代官山インスタレーションが始まった。

槇文彦さんは、面白いのは設計したわれわれが想像もしないような使われ方をされるのを見る時だという。 特にパブリックスペースでは、印象深いシーンを目の当りにする幸運にしばしば恵まれてきた。 ヒルサイドフォーラム前の広場(ヒルサイドスクエア)で、クリスマスイブの日、近所の教会の人たちが聖歌を歌っているのを見たことがある。 それは、楽しい光景だった。 ヒルサイドカフェでよく見かけた中老の男性も忘れがたい。 その人はいつも同じ場所に座り、四分の一のボトルの赤ワインとサンドウィッチを頼み、ボトルが半分になったところでサンドウィッチに手をつける。 そしてコーヒーを注文する。 毎朝一時間ほど、旧山手通りを行き来する人たちをぼんやりと見ていた。 それはひとりの儀式(リチュアル)のようだった。 槇さんは、ニーチェの「孤独は私の故郷である」という言葉を思い出す。 朝倉さんはギャラリーに併設したカフェをつくるとき、あまり混まないほうがいいと考えておられた。 自分の好きな場所に座り、そこからおなじような風景を見、自分の好きな順序で時間を過ごす―それはひとりひとりにとって大事な生活の一コマになる。 もしカフェが混んでいたら、その人は来なかっただろう。 ヒルサイドテラスだからこそ可能となる「都会の孤独空間」なのだ。

槇文彦さんがヒルサイドテラスに関わった事情2024/07/18 07:06

 槇文彦さんについて、この日記の7月6日に隈研吾さんの追悼文、7日から11日まで2012年7月6日の三田演説会の講演「言語、風景、集い。日本の都市・建築の近代化の中であらわれた特性」を書いた。 そこで代官山ヒルサイドテラスの重要性について再認識したわけだが、ヒルサイドテラスのオーナー朝倉健吾さんは大学の同級生で、長年『代官山ヒルサイドテラス通信』を送ってくれている。 その中に登場した槇文彦さんを、改めて読んでみた。

 『代官山ヒルサイドテラス通信』7号(2017春・夏)に、槇文彦さんは健吾さんのお兄さん「朝倉徳道さんを偲んで」というエッセイを寄せている。 槇文彦さんがヒルサイドテラスの第一期計画のことで、朝倉さんご一家に初めて会ったのは1967(昭和42)年春のことだったという。 当時は朝倉誠一郎さんもまだお元気で、長男の徳道さん、次男の健吾さん(大学卒業3年後)も一緒だった。

 槇さんは、60年代にワシントン大学、そしてハーバード大学で教鞭をとっていたが、そろそろ日本で設計事務所を開こうと帰国したのが1965年だった。 その槇さんが、なぜヒルサイドテラス第一期の建築家候補者となったのか。 槇夫人の操さんの父、松本重治さんは、かつて鎌倉の住人で、慶應義塾大学経済学部教授の西村光夫氏と親しかった。 その西村教授が徳道さんのゼミの指導教授だったので、西村教授から朝倉家へ、ちょうどハーバードで教えていた若い建築家が東京にいますよ、という紹介があったらしい。 そうした縁に加えて、もう一つの偶然は、朝倉家も槇家も共にオール慶應族であった。 徳道さんが幼稚舎で槇さんの三年後輩であることがわかり、健吾さんを含めて、同時代の慶應ボーイであったということが、この後槇さんと朝倉家の間の今日まで半世紀にわたる深い人間的絆を維持していく上で重要な事柄であった、と槇さんは書いている。

 そして四分の一世紀後、ヒルサイドテラスはハーバード大学から最も優れた都市デザインの一つとしてプリンス・オブ・ウェールズ都市デザイン賞を受けることになった。 その時、ちょうど徳道さんの長男・陽保(はるやす)さんがハーバード大学のビジネススクールに在学中で、授賞式にも出てくれた。 そのとき槇さんは謝辞で、もしも1965年にハーバード大学を退職していなかったら、あるいは現在の妻と結婚していなかったら、今日この授賞式に出席することはなかったのではないか、と述べたという。