福沢の雄弁な『男女交際論』2024/03/27 06:38

 福沢は、明治19年の『男女交際論』で、こう説いた。 今我国の男女にその天与の幸福を全うして文明開化の春風に快楽を得さしめるためには、男女両生の交際を自由にして、文学技芸の益友を求めるなどという理屈だけを言うのでなく、花鳥風月、茶話の会、唱歌管弦、立食の宴など、大小軽重、有用無用を問わず、ただこころおきなく往来集会して談笑遊戯、相近づき相見るの仕組を設けるよりほかの手段はないだろう。 こうして相互いに親近するうちに、双方の情感がおのずから相通じて、知らず識らずのうちに女は男に学び男は女に教えられて、有形に知見を増し無形に徳義を進め、居家処世の百事、予期しないところに大きな利益があることに間違いはない。

 しかし、この我輩の奨励を例の古学者流の臆病心で、はなはだ危険だという者もいるだろう。 いかにも万全の保証はできないけれど、「火を見たらば火事と思い、人を見たら賊と思えとは古き俗諺にして、或は当ることもあらんなれども、去りとて火は利用せざるを得ず、人には面接せざるを得ず。火事なり賊なりとて一切これを近づけざるが如きは、人間世界に行わるべき事に非ず。男女の交際も亦斯の如し。時には危き事もあるべしと雖ども、之に躊躇すれば際限あるべからず。一、二の危きを恐れて千古の宿弊を捨置き、以て無数の幸福を空(むなし)うするが如きは、夏の時節に一、二の溺死人あるとて水泳(みずおよぎ)の危険を喋々して一切これを禁止するに異ならず。我輩の感服せざる所なり。」

 この例を見ても、福沢の文章は、譬えが巧みで、まさに福沢の独壇場、その雄弁ぶりは演説と無縁ではない。 福沢は、明治8年には演説館を建てている。 慶應義塾では、雄弁に、面白おかしく話す練習をしていた。 物事は公明正大に、有為の人材が正々堂々と、自分の言葉で、所見を述べる。 人が聞いてくれなければ、どうにもならない。 『福翁自伝』は、口述筆記ということもあるが、福沢の雄弁ぶりがよく表れている。 福沢は散憂亭変調の名で、「鋳掛(いかけ)久平(きうへい)地獄極楽廻り」(明治21年6月17日)という落語も作っている。(私は、福沢さんの落語〔昔、書いた福沢95〕<小人閑居日記 2019.8.13.>に書いていた。) 落語と演説は、関係ある。

言文一致体、口語文は、二葉亭四迷などというけれど、福沢が早いし、演説本の影響もある。 山崎闇斎も、その弟子の浅見絅斎(けいさい)も雄弁、本居宣長の文章は江戸時代なりの口語になっており、平田篤胤の心学講釈は口調の面白さがある。 中世、禅宗の坊さんの筆記、「抄物(しょうもの)」は、譬えを引きながら、巧みに講釈している。

福沢は、明治19年5月2日付の長男一太郎宛書簡で、「昨日は、婦人之客致し、凡(およそ)五十名ばかり、一々膳を備へず、テーブルニ西洋と日本と両様之食物を幷へ置、客の銘々取るニ任せて、先ツ立食之風ニ致し、事新らしけれ共、衆婦人実ニ歓を尽したるが如し。取持ハ内之娘共と外ニ社中之バッチェロル八、九名を頼み、誠ニ優しく且賑ニ有之候。此様子ニては婦女子も次第ニ交際之道ニ入る事難からずと、独り窃(ひそか)ニ喜ひ居候。」と、立食パーティを開いた様子を知らせた。 社中之バッチェロル、男性が女性をもてなす、当時としては驚天動地の試みだった。                               (つづく)

「人生家族の本(もと)は夫婦に在り」2024/03/26 07:06

福沢は明治3年の『中津留別の書』に、早くもこう書いている。 「人倫の大本(たいほん)は夫婦なり。夫婦ありて後に、親子あり、兄弟姉妹あり、天の人を生ずるや、開闢(かいびゃく)の始、一男一女なるべし。数千万年の久しきを経るもその割合は同じからざるを得ず。又男といい女といい、等しく天地間の一人にして軽重の別あるべき理(ことわり)なし。古今、支那、日本の風俗を見るに、一男子にて、数多(あまた)の婦人を妻妾(さいしょう)にし、婦人を取り扱うこと下婢(かひ)の如く又罪人の如くして、嘗(かつ)てこれを恥る色なし。浅ましきことならずや。」

薩長の尊王攘夷の革命家がつくった新政府は、富国強兵、天皇の忠臣、臣民をつくるという政策なので、「人倫の大本(たいほん)は夫婦なり」では困る。 福沢は、親孝行や家名より、夫婦が仲良くするのが根本であり、それが社会の根本だとした。

福沢は、明治18年の『日本婦人論』でも、「人生家族の本(もと)は夫婦に在り、夫婦ありて然(しか)る後に親子あり、夫婦親子合して一家族を成すと雖(いえ)ども、その子が長じて婚すれば又新(あらた)に一家族を創立すべし。而(しこう)してその新家族は父母の家族に異(ことな)り。如何(いかん)となれば新夫婦の一は此(こ)の父母の子にして一は彼(か)の父母の子なればなり。即ち二家族の所出一に合して一家族を作りたるものなればなり。この点より考うれば人の血統を尋ねて誰(た)れの子孫と称するに、男祖を挙げて女祖を言わざるは理に戻(もと)るものゝ如し。又新婚以て新家族を作ること数理の当然なりとして争うべからざるものならば、その新家族の族名即ち苗字は、男子の族名のみを名乗るべからず、女子の族名のみを取るべからず、中間一種の新苗字を創造して至当ならん。例えば畠山の女と梶原の男と婚したらば山原なる新家族と為(な)り、その山原の男が伊東の女と婚すれば山東と為る等、即案なれども、事の実を表し出(いだ)すの一法ならん。斯(かく)の如くすれば女子が男子に嫁(か)するにも非ず、男子が女子の家に入夫(にゅうふ)たるにも非ず、真実の出合い夫婦にして、双方婚姻の権利は平等なりと云うべし。」                               (つづく)

林望さんの「福沢にとっての『女性』」2024/03/25 07:11

23日は、福澤諭吉協会の土曜セミナーで、林望さんの「福澤先生にとって『女性』はどういう存在であったか」を聴いてきた。 案内にあったご本人の講演概要は、「福澤先生は、一生のあいだ常に女性の尊厳と教育の必要を説いてやまなかった。 それは、当時の社会的一般常識とはいかにかけ離れた先進的な思考であったか。 そして、その思想の拠ってきたる所以は奈辺にあったかということを当時の文献を参照しながらお話ししたい。」だった。

林望さんは、清家篤理事長に座って話すように促されたが、山崎闇斎は棍棒を持ち床を叩きながら話したという、棍棒で交詢社の床を叩くことはできないけれど、その気力にならい、立ったまま話すと、終始立って講演を続けた。 『女大学評論』の序文(明治32年2月)で、長男福沢一太郎は、家厳(父)の女性についての考えは、一朝一夕のものでなく、祖父百助の気風が家庭に浸潤して一種の家風となったもので、福沢の家では親子団欒の間に、例えば「妾」「女郎」などの言葉はまったく口にせず、本書で論じたことの如きは知れ切ったこととして、親も説ききかせず、子供が聞いたこともなかった。 父は大患がようやく峠を越し、なお半眠半醒の間にも、しきりに女性論を口にしていた、脱稿は発病の6、7日前であった、と記した。 福澤先生の女性論についての気力は、最晩年にも衰えず、烈烈たるものであり、その生涯を通じたものであった。

父百助は真面目な人だったが、45歳で亡くなった時、福沢は3歳で、その人柄について、絶えず母から聞かされて育った。 大坂から中津に帰り、家では周囲の人が行く芝居(悪所)には行かず、話も出ない。 母と三人の姉の中で育ち、女性は尊敬すべき存在であり、初めから女性蔑視はない。 福沢の女性尊重は、幼児体験、原体験に根ざすもので、それは生涯変わらなかった。

福沢の女性論は、福澤諭吉著作集 第10巻『日本婦人論 日本男子論』や、西澤直子さんの『福澤諭吉と女性』(ともに、慶應義塾大学出版会)に詳しい。

田沼意次と「江戸打ちこわし」2024/03/24 08:13

 田沼意次は、沢木耕太郎さんが現在、朝日新聞土曜日beに連載中の小説『暦のしずく』で、主人公の講釈師・馬場文耕が左京という名だった少年時代に、芝にある直心影流の長沼四郎左衛門国郷の同じ道場に通っていた田沼龍助だった。 一緒に連れ立って帰ることになった二人の道場通いは、享保18(1733)年から19(1734)年にかけての一年ほどだった。 龍助の意次は、享保17(1732)年7月、14歳のときに八代将軍吉宗に初御目見得し、15歳で西の丸の家重の小姓になることが内々に決まった。 実際に小姓に上がるのは享保19年3月になるが、父と相談し、それまでの間に一度はということで、道場通いした、という物語になっていた。(2023年11月25日、第56回)

 「田沼時代」のところに出てきた「江戸うちこわし」とは、江戸の下層都市民が米屋などを打ちこわした事件で、三つあった。

 (1)1733(享保18)年1月、前年の凶作による米価騰貴を原因に、30・31年幕府の米価引上げ政策に積極的に加担した下り米問屋高間伝兵衛宅を2000~3000人で打ちこわしたもの。

 (2)1787(天明7)年5月、天明飢饉による米価騰貴を原因に、江戸市中の米屋をはじめ質屋・酒屋など900軒以上が打ちこわされた事件。 最盛期の20~30日にかけて江戸は無警察状態に陥った。 当時幕府は前年に田沼意次が老中を罷免され、政治は停滞状況にあったが、この事件を契機に田沼につながる勢力が追放され、松平定信の老中入りが実現した。

 (3)1866(慶応2)年5・6月、第2次長州戦争による政治不安・物価騰貴のなかで、米屋を中心に横浜商いの商人も打ちこわしをうけた事件。 直後に発生する武州一揆とともに幕府に衝撃を与えた。 9月にも下層民が集結したが、大規模な打ちこわしにはいたっていない。 これらの事件は幕府の膝元で発生したため、幕政に多大な影響を与えた。

18世紀後半、日本文化の大変化2024/03/23 07:09

 池大雅(1723~1776・享保8~安永5)と与謝蕪村(1716~1783・享保元~天明3)が《十便十宜図》を描いたのは、明和8(1771)年だという。 芳賀徹さんは『絵画の領分』で、江戸時代の18世紀後半に、日本文化の多くの分野で、大きな変化があったと指摘している。 ごく大づかみにいうと、自然と人間社会と世界とに対する、より合理主義的な、そして内面に向かっても外界に向かっても、よりリアリスティックな態度を志向していた。 いずれも海外世界からの影響や衝撃による変化というよりは、むしろ18世紀初頭以来の徐々の内発的醸成が、「田沼期」独特の自由主義的雰囲気のなかで開花したと見るべきだという。

 「田沼期」、「田沼時代」とは、田沼意次が側用人・老中として幕政の実権を握った宝暦(1751~1764)年間から(明和8年間、安永9年間をはさみ)天明(1781~1789)年間にかけての時期をいう。 貿易振興・蝦夷地開発・新田開発など経済政策による幕政の積極的打開を意図したが、賄賂政治と批判され、天明飢饉や江戸うちこわしにより失敗に終わった、といわれる。

 日本文化の多くの分野での、大きな変化とは、深浅の差こそあれ、共通の反伝統的姿勢をもった新しい知的好奇心と一種の啓蒙思想が発動し、また旧来の規範からいっそう自由になった感性と感情の表現がひろまったことだった。  平賀源内、前野蘭化(良沢)、杉田玄白、あるいは志筑忠雄、本多利明というような洋学派の自然科学や世界地理の分野における活動ばかりではない。 本居宣長の文献学による古典再評価と、それによる日本人のアイデンティティ探究の試みにおいて、三浦梅園の認識論上の方法的考察において、さらに上田秋成、大田南畝、与謝蕪村、加舎白雄(かやしらお)、小林一茶らの散文や俳諧、あるいは川柳において、大坂の混沌社グループや菅茶山らの漢詩において、また池大雅、伊藤若冲、与謝蕪村、丸山応挙、小田野直武、佐竹曙山から鈴木春信や喜多川歌麿や司馬江漢にいたる絵画において、日本文化は「田沼時代」を中心に、たしかにさまざまの新しい、はなやかな相貌を見せはじめた、と芳賀徹さんはいうのだ。

 私が名前も知らなかった、志筑忠雄(しづきただお、1760~1806)は、蘭学者、オランダ語法を本格的に研究した最初の日本人で、『暦象新書』を編み、ニュートンの天文・物理学を紹介した。『鎖国論』『助字考』。 本多利明(1743~1820)は、経世家、江戸に算学・天文の塾を開き、かたわら蘭学を修め、天文・地理・航海術を学ぶ。ヨーロッパの事情に明るく、『西域物語』『経世秘策』『経済放言』を著し、開国・貿易と北防の急務を説き、北夷先生と称した。