エンタツと秋田實、漫才の改革で一致 ― 2026/03/03 06:57
富岡多恵子さんの『漫才作者 秋田實』、第一章の「秋田實」以前、から、第二章の「漫才作者」の誕生、へ進む。 秋田實は、「転向」して「漫才作者」になったわけではない。 雑誌「戦旗」の編集を離れたのは、「戦旗」自体が解体に追いこまれたためであり、「日本金属」労組の属する「全協」も昭和9(1934)年に壊滅し、生活費、活動費を稼ぐために、手当たり次第に雑誌に雑文を書く生活に追いこまれていった。 「日金」の委員長の平野宗が北海道で捕まり、「日金」が壊滅状態になり、そこで活動していた秋田と長沖一が大阪へ帰った。 それで藤沢桓夫が大阪朝日新聞学芸部記者の白石凡に紹介し、白石凡がエンタツに引き合わせることになる。 エンタツは医者の息子で、当時の漫才師のなかでは例外的に、中学校(旧制)に学んでいる。
その年がいつだったか、富岡多恵子さんの書き方は矛盾するのだが、秋田がエンタツ、アチャコと会ったのは昭和6(1931)年で、エンタツ34歳、アチャコ33歳の二人はすでに家庭をもち、26歳の青年だった秋田に、アチャコは「御高名はかねがね伺っております」と如才なく挨拶し、エンタツは「先生」と呼んだという。 会ってから一週間ほどした午前中に、エンタツが突然秋田を訪ねてきて、夕方まで仕事がないといって、秋田の部屋で4時間以上も話しこんでいった。 それでも足りず、その日出演する演芸場の楽屋で会う約束をして、その夜はエンタツの廻る4軒の寄席を、秋田はついて廻るのである。 いかに両者の気が合い、ハナシが合ったかがわかる。 その後、しばらくは、毎日エンタツとどこかで会い、「いくら話をしても、後から後から話が湧いて来て、話が尽きなかった」。
34歳の漫才師と26歳の左翼青年が、まるで中学生か高校生のようなあと先かまわぬ情熱で意気投合するのはなぜか。 ひとつには、エンタツの、当時の漫才への不満がある。 その不満をぶちまけられる相手がいなかったということがある。 秋田は、漫才をよく見て知っている上に、中学生のころからの笑いに対する「教養」があるから、エンタツがいおうとすることを適確に理解する。 エンタツの、漫才への不満とは、当時の漫才の内容、笑いのレベルの低さに対してである。
高座の上で頭をピシャピシャ張り合う、殴る、ひどいのは蹴る、台詞も陳腐な、漫才の「卑猥で低級」な芸からの脱出で、ふたりは一致した。 そのためには、漫才にも「台本」というものが必要なのではないか、という点でも考えは一致した。
秋田實、東大での活動と、雑誌への関わり ― 2026/03/02 07:11
秋田實は、東京帝国大学(以下、東大と記す)入学後、すぐに新人会に入会した。 その昭和3(1928)年ごろには、新人会は「望めば誰でも入会できる団体」ではなくなっていた。 マルクス主義の学習では理論水準が高まっていて、非合法団体に近く、学内の研究だけでなく学外の社会運動への参加が要請されていた。 秋田と丹羽道雄が入学後、すぐに新人会に迎えられたのは、大阪高校でのキャリアがあったからだ。 藤沢桓夫は、その二年前に入会していたが、まだ入会資格がきびしく問われなかったのかもしれない。 藤沢が最初の研究会に出た時、その講師(チューター)が一年生(亀井勝一郎)だったのに驚いたという。
丹羽は学内の幹事会で活動し、秋田は幹事会の指示で日本金属労働組合の書記として出向している。 新人会は、昭和3(1928)年の「三・一五事件」で大学から解散させられて非合法になったが、活動は続けていた。 それが「豊島園事件」(9月28日)で会員が検挙されたために大学にバレてしまい、幹事長の丹羽は退学処分を受けた。 東大が思想事件で学生を退学処分にした第一号がこの丹羽道雄だという。 秋田が手伝っていた日本金属労働組合も、非合法の共産党指導下にある非合法の組合で、おおっぴらにできるものではなかった。 秋田は、この仕事だけではなく、紡績工場で雑役工として働いている。
昭和5(1930)年「五月二十日事件」(「戦旗社事件」)で、雑誌「戦旗」の責任者壷井繁治が検挙された後、秋田實は「戦旗」の編集にかかわっている。 戦旗社は『太陽のない街』、『蟹工船』というプロレタリア文学のベストセラーを出していた。 秋田は「戦旗」昭和5年12月号に、森一の筆名(あるいは変名)で、「工場実話小説 首切り反対だ!」を書いている。 同じ年、プロレタリア文芸雑誌「集団」の10月号に「踏査図―ゼネストへ―」という小説を、林熊王の筆名で書いている。 翌昭和6(1931)年7月号の「集団」にも、林熊王の名で「網」を書いている。 いずれも、アジ・プロ小説である。
「戦旗」の編集にかかわっていた昭和5、6年ごろ、秋田實は「犯罪科学」という雑誌の編集を手伝っている。 「戦旗」とは目的意識が違って、金を得るためであった。 雑誌のあちこちに「埋め草」の短い文章がある。 昭和6(1931)年9月号の「読心術」は「勝貞仁四郎」の署名で、フランス笑話だ。 秋田が高校時代から外国のユーモア雑誌で愛読し、暗記までしたというネタではないか。 「勝貞仁四郎」は、カツサダジンシロウでなく、カッテニシローだろう。 こうした筆名の付け方は秋田の得意とするところで、秋田實自体も、春野仲明(ハルノナガメ)、夏山茂、夏輪篤(ナツワアツシ)、秋田實、冬賀北蔵(フユガキタゾウ)、のうち一つが定着(?)したものであり、「歴史科学」(昭和9年6月号)にある「忠臣蔵零れ話一」の筆者は鷲屋通頼で、このワシャツライが秋田實であると実証する人がいたそうだ。
旧制大阪高校生・林廣治(秋田實)の二つの顔 ― 2026/03/01 07:35
秋田實(本名・林廣治)は、晩年の昭和50(1975)年4月から9月まで、「わが心の自叙伝」を「神戸新聞」に26回連載した。 そのなかでも、中学、高校、大学時代のことを、藤沢桓夫と長沖一を一番の畏友としてあげ、永年の仲良しとして回顧しているが、高校、大学時代にかかわっていた左翼運動についてはなにも述べていない。
旧制大阪高校、大学ともに同窓の丹羽道雄は、「秋田實君秘話その他(大高学生運動略史)」を「大高会報」№44(1983年12月)に書いている。 昭和2(1927)年暮れ近く、秋田實と二人で大高社会科学研究会を作った。 大高の社研は、すでに大正13(1924)年の半ばごろ非公認に組織されたが、自然休止になっていて、しかも大正15(1926)年の「京都学連事件」で「左傾」学者、学生が検挙され、治安維持法がはじめて適用された。 また、社研、読書会等の左傾思想の研究を目的とする団体の設立、個人でも左傾思想におちいるおそれのある研究は、文部大臣の通達で禁止されていた。 そういう状況での「社研」づくりであった。
秋田が丹羽を誘って「大高社研」をつくろうと、読書会を開いたのは、昭和2(1927)年の5、6月頃だった。 それとは別に二人は、当時の言葉で「ケルン」をつくった。 「ケルン」とは、社会科学の勉強がある程度以上の段階に達していることをいった。 大高と大阪薬専、大阪外語の「ケルン研究会」は、京大生が主の「関西学連」(関西学生社会科学連合会)の指導を受けた。 実践面でも、秋田は大阪合同労働組合、丹羽は産業労働調査所支所にそれぞれ出向いた。
秋田は、大高入学後4年目から5年目にかかるころに、社会科学への関心と接近があったと考えられる。 秋田の当時の「大高社研」づくりや熱心な実践活動を、「仲良しの兄貴分」である藤沢桓夫はまったく知らなかった。 「わが心の自叙伝」には、ほとんど毎日、学校の帰りは藤沢君たちと一緒で、丸善で洋書を見たり、喫茶店がなくて大丸百貨店の食堂でお茶を飲んだりし、翻訳本がないので、外国の小説等も原書で読むしかなく、フランスやロシアの短篇小説は英語で読むとやさしいと藤沢に教えられ、同じ本を買い競争で読んで話し合うのを楽しみにした、とある。 学校の往き帰りやブラブラ歩きの時には、駄洒落が盛んだったが、駄洒落では秋田が一番の大将で、藤沢君や長沖君と一緒の時には、よくはしゃいで、皆をびっくりさせてやろう、感心させてやろう、笑わしてやろう、そんな子供っぽい気持で、よく勉強した、ともある。
ここには、大高生秋田實の二つの顔があり、藤沢桓夫や長沖一に見せている顔と、丹羽道雄に見せている顔がある。
富岡多恵子著『漫才作者 秋田實』 ― 2026/02/28 07:10
私の本棚は、不思議の玉手箱である。 富岡多恵子さんの『漫才作者 秋田實』(筑摩書房・1986年)があった。 『この国のかたち』よりずっと前だから、司馬さんを読んで買ったわけではない。 落語好きだから、広告か、書評でも読んで、手に入れたのだろうが、読んだ記憶はなかった。 富岡多恵子さんは、池田満寿夫とのことを聞いた記憶があった。 2023年に亡くなっている。
それで、さっそく『漫才作者 秋田實』を読み始めると、知らないことばかりだった。 一 「秋田實」以前、二 「漫才作者」の誕生、三 戦後の秋田實、という三章構成だ。
まず、一 「秋田實」以前、本名は林廣治、明治38(1905)年に、大阪の玉造に生まれた。 父・佐市郎は、明治10(1877)年生れ、尋常高等小学校を出るとすぐに、大阪にできたばかりの砲兵工廠に入り、50年間、鋳物専門の職工として働きつづけ、67歳の時、民間の自動車会社創立に招かれて移り、研究のためにアメリカに派遣されたりして、自動車の生命であるシリンダーの鋳造で唯一の技術者、功労者だった。 しかし、日本の自動車工業の歴史から、その功労が抹殺されていると同僚が手紙に書いていて、「学」がなかったために、ずっと「職工」で、40年たってやっと「助役」になった。
母・いしは、明治12(1879)年、福井の永平寺に近い農家の生れ、和裁をよくし、本や新聞を読むのが好きで、佐市郎は「ばさん(ばあさん、つまり自分の妻の大阪弁)は学者や」といっていた。 同居する夫の父親、鳥羽・伏見の戦いが16歳の初陣という元サムライの、長男には学問をさせても、次男林廣治は早く職について家を助けるのが常識だという考えに、敢然と対決した。 廣治は、母親のガンバリで、当時、小学校から府立中学に進むのはクラスの中で10人もいなかったにもかかわらず、進学する。 「学があったらなあ」と時折もらしていた万年「職工」の夫佐市郎の無念を、息子で晴らしたい気持もあったにちがいない。 廣治は幼時から病弱だったが、小学校のころ帝大へいきたいというと、「やってあげるがな」といっていたという。 5歳上の兄は、大学(関西学院)を出て間もなく病死したので、廣治は佐市郎、いし夫婦のひとり息子となってしまった。
林廣治は、大正7(1918)年、旧制今宮中学に入学し、一年上の藤沢桓夫(たけお)と知り合った。 大正12(1923)年、旧制大阪高校に入学したが、一年落第していた藤沢桓夫と同学年になった。 天王寺中学から入学した長沖一(まこと)とも同学年で、この三人は以後、50年余にわたる友情で結ばれる。 昭和3(1928)年、林廣治は22歳で東京帝国大学文学部支那哲学科に入学したが、高校で二度落第しての入学である。 大学もまた、藤沢、長沖と同じで、長沖とは下宿も同じであった。 林廣治が大学を卒業せず、東京と大阪を往復するような生活をしていた時に、藤沢桓夫が大阪朝日新聞学芸部記者の白石凡に紹介し、白石凡がエンタツに引き合わせることになる。
秋田實=林廣治の学歴は、明治38(1905)年生れの人間としては超エリートコースの高学歴者といえる。
司馬遼太郎『この国のかたち』、自作「索引」ノート ― 2026/02/27 07:09
例えば、「あ」は、下記のような項目を挙げている。
会津 ⑤75 県立のユニークな単科大学 ⑤83
青木周蔵(1844-1914) ①247
秋田実「耳はばかですから」「目は、そうはいかない。じつにうるさい」 ⑥119
足利将軍家 ④21
足利義政(1436-90)「いきな将軍」 ①227
安曇(アヅミ)氏 ④55
鐙(あぶみ) ④11
アヘン戦争 ④105
阿弥陀経 ③250
阿弥陀如来 ②75
新井白石 ①163 ②24
有馬頼義 ①94
安藤昌益 ①100
それぞれ、興味ひかれるけれど、一番は「秋田実」だろう。 さっそく、文庫本の第6巻119ページを見てみた。 「言語についての感想(四)」である。
「「耳はばかですから」
と、むかし、酒を飲む席で、秋田実氏がいわれた。この人は、いまは亡い。昭和初年に東京大学を出ると、大阪にもどってきて、旧弊なマンザイを一新した人である。万歳を漫才という文字に変えたのもこの人だったと思うが、漫才はむしろ論理やつじつまが飛躍しなければならない、飛躍のあざやかさこそ漫才の本領なんです、と秋田さんはいわれた。ラジオの漫才を聴いている人は、たとえば毛糸編みの編み目をかぞえながらでも、聴くことができる。耳というのは言葉についてそれほど許容量のおおきいものです、といわれた。
「目は、そうはいかない。じつにうるさい」
この人は、日本で最初に漫才の台本を書いた人であり、かつべつに著作がある。耳と目の両方の言語世界を往復されていた人だった。
そのころ、私は幕末から明治にかけての噺家で、不世出の名人と言われた三遊亭円朝(1839~1900)のことが知りたくて、古本で『円朝全集』(昭和2年・春陽堂)十三巻を買い、なんとか読もうとしていた。しかし読みづらかった。この描写の名人が、精魂を傾けた描写の下りがふんだんにあるのだが、それが活字になってしまうと死物になっていて、イメージをどうにも結びにくい。また作品の中には日本的な陰湿さをもった悪漢文学(ピカレスク)が多いのに、そのモラルの〝ひだ〟(傍点)までが、読むという感覚では、とらえにくかった。」(中略)
「(やはり、円朝は聴くべきものだったのだ)
と、私は秋田さんの話によって、平凡な発見ながら、驚きとともに思った。円朝ほどのすぐれた言語的展開でもそのまま文章にひきうつされると、こうまで生彩をうしなうものかと、むしろそのことに関心をもった。」
私が「等々力短信 第1200号」で自慢した、マクラから落ちまで書いている落語研究会の聞き書きは、司馬さんなら何点ぐらいくれるのだろうか。
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