富岡多恵子著『漫才作者 秋田實』2026/02/28 07:10

 私の本棚は、不思議の玉手箱である。 富岡多恵子さんの『漫才作者 秋田實』(筑摩書房・1986年)があった。 『この国のかたち』よりずっと前だから、司馬さんを読んで買ったわけではない。 落語好きだから、広告か、書評でも読んで、手に入れたのだろうが、読んだ記憶はなかった。 富岡多恵子さんは、池田満寿夫とのことを聞いた記憶があった。 2023年に亡くなっている。

 それで、さっそく『漫才作者 秋田實』を読み始めると、知らないことばかりだった。 一 「秋田實」以前、二 「漫才作者」の誕生、三 戦後の秋田實、という三章構成だ。

 まず、一 「秋田實」以前、本名は林廣治、明治38(1905)年に、大阪の玉造に生まれた。 父・佐市郎は、明治10(1877)年生れ、尋常高等小学校を出るとすぐに、大阪にできたばかりの砲兵工廠に入り、50年間、鋳物専門の職工として働きつづけ、67歳の時、民間の自動車会社創立に招かれて移り、研究のためにアメリカに派遣されたりして、自動車の生命であるシリンダーの鋳造で唯一の技術者、功労者だった。 しかし、日本の自動車工業の歴史から、その功労が抹殺されていると同僚が手紙に書いていて、「学」がなかったために、ずっと「職工」で、40年たってやっと「助役」になった。

 母・いしは、明治12(1879)年、福井の永平寺に近い農家の生れ、和裁をよくし、本や新聞を読むのが好きで、佐市郎は「ばさん(ばあさん、つまり自分の妻の大阪弁)は学者や」といっていた。 同居する夫の父親、鳥羽・伏見の戦いが16歳の初陣という元サムライの、長男には学問をさせても、次男林廣治は早く職について家を助けるのが常識だという考えに、敢然と対決した。 廣治は、母親のガンバリで、当時、小学校から府立中学に進むのはクラスの中で10人もいなかったにもかかわらず、進学する。 「学があったらなあ」と時折もらしていた万年「職工」の夫佐市郎の無念を、息子で晴らしたい気持もあったにちがいない。 廣治は幼時から病弱だったが、小学校のころ帝大へいきたいというと、「やってあげるがな」といっていたという。 5歳上の兄は、大学(関西学院)を出て間もなく病死したので、廣治は佐市郎、いし夫婦のひとり息子となってしまった。

 林廣治は、大正7(1918)年、旧制今宮中学に入学し、一年上の藤沢桓夫(たけお)と知り合った。 大正12(1923)年、旧制大阪高校に入学したが、一年落第していた藤沢桓夫と同学年になった。 天王寺中学から入学した長沖一(まこと)とも同学年で、この三人は以後、50年余にわたる友情で結ばれる。 昭和3(1928)年、林廣治は22歳で東京帝国大学文学部支那哲学科に入学したが、高校で二度落第しての入学である。 大学もまた、藤沢、長沖と同じで、長沖とは下宿も同じであった。 林廣治が大学を卒業せず、東京と大阪を往復するような生活をしていた時に、藤沢桓夫が大阪朝日新聞学芸部記者の白石凡に紹介し、白石凡がエンタツに引き合わせることになる。

 秋田實=林廣治の学歴は、明治38(1905)年生れの人間としては超エリートコースの高学歴者といえる。

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