戦争直後の職業野球、東京六大学野球2026/03/14 07:15

三ノ輪橋停留場のレトロ看板

 3月1日に三田あるこう会「三ノ輪橋から竜泉、吉原、浅草散策」に行ったとき、都電の三ノ輪橋停留場で集合して、近くにあった東京スタジアムの話になった。 東京球場ともいった、ロッテオリオンズのフランチャイズ球場は昭和47(1972)年に閉場している。 大先輩が永田雅一の大映の球場だと話されたが、毎日大映オリオンズから、東京オリオンズ、ロッテオリオンズとチームの名前が変わっている。 昭和37(1962)年5月31日の開場だそうだ。 一度観戦に行ったことがあるが、南千住駅から行った。

 鴨下信一さんの『誰も「戦後」を覚えていない』に、「復員野球―幻影も一緒にプレーしていた」という章があって、戦争直後のプロ野球(そういえば、職業野球と言っていた)の話がある。 私の記憶は、ようやく「赤バット川上、靑バット大下」から始まるのだが、復活の最初は、終戦の昭和20(1945)年の11月23日の東西対抗戦だったそうだ。 場所はステートサイド・パーク、9月18日に進駐軍に接収されていた神宮球場だ。 私は、両国の国技館がメモリアルホール、東京宝塚劇場がアーニー・パイル劇場だったのは、知っていたが、これは知らなかった。 東京六大学野球の歴史をみると、昭和20(1945)年の10月28日にOB紅白戦、11月18日に全早慶戦を神宮球場でやったとあるが、東西対抗戦の直前に、ステートサイド・パークを許可を得て借用したわけだ。 昭和21(1946)年春のリーグ戦は、5月19日から前半は上井草球場、後半は後楽園球場で1回戦制で行われ、6月16日慶應が戦後最初の優勝校となり、東大も健闘して2位となったのが歴代最高順位だそうだ。

 鴨下信一さんのプロ野球・東西対抗戦だが、ステートサイド・パークの第一戦の後、西宮球場の三、四戦の前に、群馬県桐生の新川球場で第二戦をやった。 桐生はもともと中等学校野球の名門校が多かったところだが、実は、この土地に審判の一人の知人がいて、全員に腹いっぱい米の飯を食わすと約束したからだそうだ。 いかにも敗戦直後のことらしいが、以後もプロ野球の地方遠征はまず白い米の飯を食わせてくれるところを狙って行われた。 翌々年の第3回東西対抗の優秀選手賞は豚とアヒルだったという。

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