「獅子舞」、納豆・竿竹・豆腐売り、「いかけ屋」「ラオ屋」 ― 2026/03/12 07:10
「三河万歳」のように子供の頃、東京品川の町に来ていたもので、その後、来なくなったものを、あれこれ思い出す。 正月には、「獅子舞」も来ていた。 やはり、なにがしかを渡すと、獅子の口で子供の頭を噛んでくれるのだが、それが縁起がいいといっていた。 『東京生活歳時記』の宮尾しげをさんは、「この舞の囃子は、古くから正月の風物詩の伴奏として有名で、いかにも初春の気分がうかがえる。30年ほど前(戦前、昭和14年頃になる勘定)は、新潟県から越後獅子というものが出てきたが、これは少年が演じることから、未成年者就業禁止令で現今では見られなくなった。門付獅子は俗に寿獅子といって、正月の宴席でよく見るものに似ているが、精巧な演技は示さず、単に獅子頭の口をパクパク動かし、「お目出とうござい」という程度のことである。獅子は奈良朝の昔、中国から入って来た散楽の一種で、除魔招福の役目をするものとされて、官民の間に持てはやされてから、祭儀には必ず出てくるもののようになった。」
子供の頃、「なっと、なっと、なっとーーッ!」という納豆売り、「竹屋、竿竹ーッ!」の竿竹売り、「トーーフィーー!」と笛を吹く豆腐屋も来た。
煙管掃除の「ラオ屋」が、蒸気を吹き出す釜をのせた屋台を引いて来た。 辞書を引いたら、「羅宇屋」、「羅宇(ラオ)のすげかえをする職業」、羅宇のラオは、ラオス、ラオスから渡来した黒斑竹を用いた、キセルの火皿と吸い口とを接続する竹管。ラウ。」
「いかけ屋」という鍋や釜の修理屋も来た。 辞書によると「鋳掛け」で、(1)「銅・鉄器の漏れを止めるため「しろめ」などをとかしこんで穴をふせぐこと」とあり、(2)「夫婦一緒に歩くこと。男女の同行。(文化末年、大坂に夫婦連れで歩いた鋳掛屋があり、三代目中村歌右衛門がこれをモデルにした所作事を演じたことから)」というのは、知らなかった。
昨日も書いたが、私が小学校を卒業した昭和29(1954)年ごろまでは来ていたように思う。 六・三制の民主主義教育の二期生だから、教科書を墨塗りしたことはない。 教科書を墨塗りしたという、敗戦を学校や集団疎開で迎えた少し上の世代とは、終戦直後の時代に対する感じ方が違うのだろうと思う。
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