牧野伸顕・吉田茂・武見太郎、太平洋戦争の遠因「統帥権の独立」 ― 2026/08/15 07:46
2007年というと、もう20年近く前になるが、「牧野伸顕・吉田茂・武見太郎」「太平洋戦争の遠因「統帥権の独立」」を書いていたので、再録する。 ここにある「今度の短信」というのは、2007(平成19)年9月25日の「等々力短信」第979号「保阪正康さんの皇室論」で、「そこで保阪さんが展開するのが、雅子妃が理想とすべきは大正天皇妃の貞明皇后だという論である。 貞明皇后は社会の動きや人情の機微にふれ、きわめて鋭敏な歴史感覚を持ち、自らの意思を通す強い性格を持っていた。 大正天皇のご病気がはっきりした大正10年代、その重い責任を自覚して、政治家・原敬、宮廷官僚・牧野伸顕、元老・西園寺公望、東宮大夫・珍田捨己という人物達を、自らの股肱の臣として信頼を寄せ、彼等とともに「大正天皇から摂政宮」という天皇像を確立していった。 実際には「女性天皇」の時代ともいうべき社会空間が出来上がっていた、というのだ。」
牧野伸顕・吉田茂・武見太郎<小人閑居日記 2007.9.27.>
ほとんど麻生太郎さんで決まりといわれていたのを、二日前から知っていたと、ポロッとしゃべったために(クーデター説も影響したか)、福田康夫さんにさらわれてしまった。 政治の世界、一寸先は闇だ。 今度の短信に牧野伸顕が出てきたので、その麻生さんの姻戚関係を整理してみた。(以下、敬称略)
牧野伸顕(1861~1949・のぶあき、しんけんの方が通りがいい)は、大久保利通の次男(ウィキペディアだと三男)。 官界に入り、文相、農相、外相、宮内大臣、内大臣を歴任。 伯爵。 政界に隠然たる勢力を持つが、2・26事件では親英米派として襲われる。 吉田茂(1878~1967)は娘(雪子)婿。 吉田茂の娘、和子は麻生太賀吉と結婚、太郎、泰(ゆたか)、雪子、旦子、信子が生まれた。 その太郎が麻生太郎であり、信子は三笠宮寛仁親王に嫁して、彬子女王、瑶子女王がある。
牧野伸顕と妻・峰子(三島通庸の娘)の間には、雪子のほかに利武子があり、秋月種英に嫁し、その娘・英子が武見太郎(日本医師会会長)と結婚した。 武見太郎の息子が武見敬三議員、娘の和子が麻生泰(株式会社麻生(セメント)社長)に嫁している。
牧野伸顕、吉田茂、武見太郎の姻戚関係は、戦後、高橋誠一郎教授が「帝室論」を媒介として文部大臣に就任する際に、働くことになる。
太平洋戦争の遠因「統帥権の独立」<小人閑居日記 2007.9.28.>
武見太郎さんの『戦前 戦中 戦後』(1982年・講談社)を再読していたら、牧野伸顕が、軍部をのさばらせた原因は、帝国憲法の「統帥権の独立」にあったと常に述懐していた、と書いてあった。 のちに司馬遼太郎さんが太平洋戦争の原因として考えた「統帥権」である。 武見太郎さんは、妻の祖父にあたる牧野伸顕が、日本の勃興から敗戦に至る90年の波瀾の生涯に、とにかく問題の本質をつかまえた元老として、大きな存在であったと思う、という。
その牧野の述懐というのは、つぎのようなものである。 大久保利通は、最初の日本憲法の草案者であるけれども、彼は統帥権の独立を認めなかった。 陸軍の総帥山県有朋元帥が執拗に統帥権の独立を要求したけれど、大久保利通はこれを拒否して譲らなかった。 そのうちに大久保が凶刃に斃れて、伊藤博文が憲法草案を担当することになり、伊藤が山県に負けてしまって統帥権の独立を許した。 これが後に、軍閥をのさばらせ、第二次世界大戦につながる大きな原因になったのである。
吉田茂も、ざっと見てみる ― 2026/08/14 08:14
吉田茂。(1878(明治11)~1967(昭和42)) 『日本歴史大事典』に、袖井林二郎さんが書いていた、それを部分的に引く。 「初期の外務省での経歴は傍流の中国勤務が長い。中国における権益を絶対とする帝国主義者の立場をとり、1928(昭和3)年田中義一内閣の外務次官への売り込みに成功、満州事変以後は帝国主義列強との協調路線に傾き、1936(昭和11)年広田弘毅内閣の外相を望んだが軍部の反対で成らず、同年4月駐英大使に就任。以後は日独防共協定に一貫して反対して軍部の不興を買い、1939(昭和14)年3月退官。日米開戦の勢いが高まると阻止工作に努力。戦中も和平工作を続け、1945(昭和20)年2月には敗戦による共産主義革命を恐れ、早期和平を目指す近衛上奏文の起草に荷担し、軍部により検挙投獄された。このことが吉田に「平和主義者」のお墨付きと戦後を領導する資格を与える。」
「戦後初の東久邇宮稔彦(なるひこ)内閣の外相となり、幣原喜重郎内閣でも留任。GHQ(連合国最高司令官司令部)作成の憲法改正案の対処にあたる。吉田は明治以来の日本の近代化路線は正しく、軍部はそれを誤ったとし、軍部のない今は憲法改正は必要ないという立場をとったが、GHQの「象徴」案以外に天皇制を守る方法はないと悟り、新憲法擁護論者となる。1946(昭和21)年4月鳩山一郎追放の後を受けて吉田茂内閣を組閣、首相になると「戦争で負けても外交で勝った例はある」と、政治・外交の焦点をマッカーサー総司令官との直接交渉に定め、75回の会見を行い、130通の往復書簡を交わしている。マッカーサーへの直接の接触が吉田の権力の根元であった。」
「官僚出身者を重用し、池田勇人や佐藤栄作ら一連の官僚出身政治家を育て、「吉田学校」と呼ばれた。また米軍の駐留を前提とする日米安全保障条約と連係した講和条約により日本の独立を回復したが、米国への従属体制を固定化させることになった。米側の再軍備化要求を世論を背景に値切り続け、朝鮮戦争の勃発に助けられて、のちの経済成長の路線を敷いた。1954(昭和29)年12月第5次吉田茂内閣総辞職、1963(昭和38)年引退。死没後、佐藤内閣は戦後初の「国葬」で送った。」
牧野伸顕を、ざっと見てみる ― 2026/08/13 07:12
私などは、元老、マキノシンケンと覚えていた牧野伸顕を、ざっと見てみる。 (1861(文久元)~1949(昭和24)) 明治から昭和にかけての政治家、外交官。 伯爵。 大久保利通の次男として鹿児島に生れ遠縁の牧野家に入る。 1871(明治4)年父とともに岩倉遣外使節団に同行、アメリカに留学。 1874(明治7)年帰国して東京開成学校に入る。 1880(明治13)年外務省に入りロンドン公使館勤務を経て1883(明治16)年帰国。 以後太政官に移り、制度取調局、参事院、法制局を経て、第1次黒田清隆内閣総理大臣秘書官に就任。 その後内閣官報局長、福井・茨城県知事を歴任して、1894(明治27)年井上毅文部大臣の下で文部次官。
1897(明治30)年外交官に復帰してイタリア大使、オーストリア大使に就任。 1906(明治39)年第1次西園寺公望内閣に文部大臣として入閣、義務教育年限延長に尽力した。 その後枢密顧問官、農商務大臣(第2次西園寺内閣)、外務大臣(第1次山本権兵衛内閣)を歴任し、1919(大正8)年パリ講和会議全権となる。
ついで1921(大正10)年宮内大臣に就任、1925(大正14)年には内大臣に転じ、国際協調主義と立憲政治擁護の立場で摂政裕仁親王を輔佐した。 一貫して親英米派であったが、かえって青年将校から「君側の奸」と目され、二・二六事件などでは襲撃の対象となった。 第二次大戦後に首相となった吉田茂は娘雪子の夫。
川越宗一著『絢爛の法』書評「〝満腔の熱血〟井上毅ここにあり」 ― 2026/08/12 07:17
皇室典範改正問題と井上毅(こわし)<小人閑居日記 2026.7.27.>
『福澤諭吉事典』の井上毅(こわし)<小人閑居日記 2026.7.28.>
「「明治十四年の政変」と井上毅」その発端<小人閑居日記 2026.7.29.>
井上毅の「人心教導意見案」<小人閑居日記 2026.7.30.>
その本は、川越宗一著『絢爛の法』(新潮社)で、「〝満腔の熱血〟井上毅ここにあり」という評者は書評家の吉田伸子さんである。 井上毅の毅を「こわし」と読むことも、大日本帝国憲法を起草した主要人物だったことも、知らなかったほど歴史に昏(くら)いという吉田さんだが、没入して読んでしまう熱量が、この本にはあるという。
「江戸末期、陪々臣(下級武士)の三男に生れた井上毅は、肺病を病むほどまで身を削って学問を修め、大久保利通や伊藤博文に見いだされた。」
「明治28年、51歳で没した際には「満腔の熱血を灌(そそ)ぎて国家の為めに竭(つく)せし」「洵(まこと)に痛惜すべし」と当時の新聞で称賛を惜しまれなかった毅だったが、牧野伸顕(のぶあき)はこう振り返る。「(井上は)宴会ではいつもひとりぼっちで、挨拶もろくにできず、愛想もなく」「はっきり言えば、手放しで称賛されるような為人(ひととなり)ではない」。だが、「井上毅はたしかに熱血漢だった」「熱血はひたすら仕事に注がれていた」、と。」
「その人生のほとんどを「法」に捧げた毅の生き様が、明治の要人とのかかわりとともに描かれていく。下野した西郷隆盛が起(た)った時、「キチノスケサァ」「俺(おい)ニ、オハンヲ討テチ言(ゆ)カ」と嘆いた大久保利通。毅の「ネッキタイ」を締め上げながら「無辜(むこ)の人間を短慮で殺(あや)めた俺は、たぶん碌な死にかたはせん。だからせめて、死ぬまではまっとうでいたいと思っている」と詰め寄った伊藤博文。」
「教科書で得た知識でしかなかった彼らが、物語の中で血肉を得、生身の人間として泣き、怒る。曲者だらけの男たち、彼らの血は、日本という国造りのために流された。」
「600ページを超える長大な物語だが、白眉は、敗戦後の日本国憲法施行の当日であり、序章に呼応する終章だ。牧野は思い起こす。「不磨の憲法など作っていない」と言う毅に、では、何を作ったのか牧野は問う。その答えが、胸の奥に突き刺さる。「呪われるべき憲法を、そうとも知らず、幸あれと願いながら産んだ人々」を思い牧野が流す涙は、私の頬をも濡らした。」
大正期、職業としての看護婦へ、「看護婦さん」と「看護師」 ― 2026/08/11 08:17
田中ひかる著『明治のナイチンゲール 大関和(ちか)物語』(中公文庫)で、大関和と鈴木雅を見てきた。 そのエピローグのあたりを、読む。 大正時代には、看護婦は女性の職業として定着する。 桜井看護学校や慈恵看護婦教育所などが設立された明治20年代から明治末まで、20年かかって1万3千人に達した看護婦は、大正の15年間で、3倍以上の5万1千人に達した。 和や雅に代表される初期のトレインド・ナースと、大正時代に一般化した看護婦の違いについて、村上信彦は『大正期の職業婦人』(ドメス出版、1983年)で、こう説いている。
「明治期の看護婦はそのほとんどが明確な目的意識をもち、キリスト教的な人道主義や日露戦争における赤十字活動に感動して国家社会のために献身したいという気持ち、あるいは親兄弟の病死に刺戟されて看護を生涯の目的とするような使命感が色濃かった。自ら選びとった生き甲斐のようなものである。したがって持続性も強く、生涯その仕事に従事するものが少なくなかった。これが大正になると、数ある女の職業の一つとして意識され、そのなかでも比較的有利な仕事として選択されるようになる。つまり天職意識から生活手段としての職業への転換である。」
看護婦という職業が、短期間のうちに一般化したことがわかる。 派出看護婦会は、大正末から昭和にかけての1920年代に全盛期を迎える。 しかしその後、大病院への派出は、患者の身のまわりの世話をする「派出婦」に取って代わられ、看護婦と言えば派出看護婦を指す時代は、徐々に終りに向かう。
大正4(1915)年に内務省が出した「看護婦規則」によって「看護婦」が正式名称となり、その後長い間、「看護婦さん」という呼び方が親しみを込めて使われていた。 昭和43(1968)年に男性も看護職に就けるようになると、女性は「看護婦」、男性は「看護士」と区別され、平成13(2001)年に改正された「保健師助産師看護師法」によって、「看護師」に統一された。
現在、全国で約170万人の看護師が働いている。 コロナ禍において、その過酷な労働環境や、それに見合わない待遇が問題視され、政府はわずかな賃上げを決定した。 高度な知識や技能が必要とされる専門職でありながら、なぜ看護師の賃金は低く据え置かれるのか。 突き詰めれば、女性が多い職業だからということになろうが、トレインド・ナースが誕生したとき、彼女たちが「献身」や「慈善」「無償」を是としたことも関係していよう。 しかし、多くの患者が、特に入院や手術といった深刻な場面で、看護師たちの献身や無償の優しさに救われていることもまた事実なのだ。 と、田中ひかるさんは書いている。
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