初の外国人として神殿に昇るまで ― 2025/11/01 07:02
杵築第一の旅館に泊まり、使いの者に紹介状を持たせて、明朝伺うから、よろしく願うと、通訳のアキラに一筆書いてもらった添え状をつけて、宮司の邸へとどけておいた。 翌朝、まだ早いのに、宮司の使いの若い神官が来た。 平服を着て、水色の袴をはき、主人が社殿の方でお待ち申しておりますと、口上を述べた。 神前に出るには、白足袋をはいて、袴をつけなければいけないと注意されたので、アキラは宿の主人から袴を借り、できるだけさっぱりした身なりをととのえてから、われわれは使者の案内で、社殿へ出向いて行った。
唐銅の大鳥居をくぐり、参道の壮観に驚く。 樹木の壮観も、見渡す並木道も雄大だし、左右にある広大な森や境内も、想像以上の印象を与えられた。 おびただしい参詣者の群が、ぞろぞろそこを往き来している。 第一の神苑の門前で、斎服を盛装したあいそのいい、親切そうな顔をした佐々という老人の神官が出迎えてくれ、使いの神官に代わって案内してくれる。
境内からは、もう潮騒のような重々しいひびきが聞こえてくる。 いっせいに打ち鳴らすかしわ手の音である。 大きな門をくぐると、大きな建物、拝殿の前に、数千の参詣者がつどうている。 そこからうちへは、誰もはいることができない。 おびただしいその参詣者のそばを通って、拝殿のむこうがわに出ると、神殿へのぼる、鉄の帯金を打った広い階(きざはし)の下に出る。 西洋人で、この階に近寄ることを許されたものは、いまだかつてひとりもいないということである。 その階のいちばん下のところに、斎服をつけた神官たちが、われわれを出迎えに出ていた。 いずれも背の高い人たちで、それが金絲で竜紋を織り出した紫の袍を着ている。 高い、奇妙な形をした冠、寛濶な美しい装束。 かれらはいっせいに、うやうやしく頭を下げて、礼をした。 それは、わたくしが、かれらの主人である宮司と、その社殿で面接するという名誉ある特権をあたえられた、最初の外人参拝者であるからなのだ。 日の神の子孫であるここの宮司は、この古い地方の辺陬(へんすう)に住む数万の素朴な信者たちから、いまでも「生き神」と呼ばれている尊い人である。
わたくしが、靴をぬいで、階をのぼろうとすると、外門で出迎えてくれた神官が、神殿にのぼるには、昔から神前のしきたりとして、潔斎を行わなければならぬ旨を、かんたんな身ぶりで教えてくれる。 両手をさし出すと、その神官が長柄の竹のひしゃくで、浄水を三度かけてくれて、手をふく浅黄の小さな手ぬぐいをわたしてくれた。 階のいちばん上のところで立ちどまると、神官が、わたくしの社会的階級を尋問する。 神代から、今でも、さまざまな社会的階級の参拝者の応対については、それぞれ特殊な形式と規則があるからである。 アキラがどんなお世辞を神官に述べたか知らないが、けっきょく、わたくしは普通の平民ということになった。 この嘘かくしもない事実のおかげで、わたくしはさいわいにも、どうせやれば面くらうにきまっているさまざまの儀式作法から免れることができた。
ハーン、杵築大社の宮司、千家尊紀に会う ― 2025/11/02 07:29
階をのぼったところは、広い廊下になっていて、その廊下の奥行いっぱいに明け広げられてある、だだっぴろい天井の高い部屋へと、神官は案内して行く。 お宮が三つあり、まんなかの金襴の幕の垂れているのが、大国主神のお宮で、その前にかずかずの見たこともないような物が置き並べてある台がある。 そこに髯のはえたりっぱな人が、妙なかっこうに髪を結って、白い装束を着て、畳の上に端然と坐っている。 案内の神官が、われわれをその人の前に坐らせて、挨拶をするようにと指図する。 その人が杵築の宮司、千家尊紀であった。 わたくしが日本人の辞儀の式にならって、かれの前に平身低頭すると、先方は、初対面の異邦人をすぐと寛がせるような、きわめていんぎんな挨拶を返してくれた。
千家尊紀は、まだ若々しい、有為の人物である。 この人のもっている威厳だけでも、いやおうなく尊敬せずにはいられないこと勿論であるが、わたくしのばあいは、そうした尊敬の念とともに、日本で最も古い国であるこの出雲の郷民から、この人が受けている深い尊信、つまり、この人が掌握している大きな精神的な力、それと神の末裔であるという言いつたえ、つまり、この人の血統が、太古から高貴なのだという考え、これがすぐとわたくしの脳裡にひらめいた。 そう思ってみると、わたくしの尊敬の念は、一種畏怖に近いものにまで深められた。 わたくしの通訳者が、通訳してくれる、かれのことばは、言々句々、じつにおおらかな、ていちょうをきわめた挨拶である。 わたくしは、分に過ぎた格別の厚意に深く謝するという意味のことばをのべて、精いっぱいの答礼にかえた。
わたくしが、「杵築の大社は、伊勢の神社よりも古いのではございませんか」と尋ねると、宮司は答える。 「ずっと古うございます。ちょっと年代がわからんくらい、古うございます。神々だけがおいでのころに、天照大神の御命令によりまして、初めて当大社は建てられたのでございますから。その当時は、社殿もひじょうに宏壮なもので、高さ三十二丈、梁や柱などは、とても今日の木材ではつくれぬくらい大きなもので、骨組などは、長さ一千尋(ひろ)の栲(たく、コウゾの古名)の緒でつくりました綱で、しっかりとくくってあったものです。」
神聖な火を得る「火鑽」の儀式 ― 2025/11/03 07:10
ハーンは、こういうことを聞いた、として、こう書いている。 大社は、毎年、新しい火鑽(かさん、ひきり)を受ける。 この火鑽は、杵築でつくられたのではなくて、熊野(熊野大社・現 松江市八雲町熊野)でつくられるのである。 熊野には、火鑽のつくりかたの規則が、神代から伝わって残っている、と。
「火鑽」とは、鑽火(きりび)、神道において古代から行われている神聖な火を得る原始的な発火方法で、火鑽杵(ヤマビワ材)を火鑽臼(ヒノキ材)に激しく擦り合わせ、忌火と呼ばれる神聖な火を熾し、神饌の調理など、神事に用いる。
なぜ、熊野から火鑽を受けるのかというと、出雲の初代の国造が、はじめて大社の宮司になったとき、日の神の弟で、いま熊野に祭られている神から、大社の火鑽を受けた、という故事によるのである。
ごく近年までは、杵築の宮司に、その年の新しい火鑽をわたす儀式は、「卯の日祭り」という祭りの日に、神と人間の母なるイザナミの神をまつった、大庭(おおば)の神社(神魂神社・かもすじんじゃ、現 松江市大庭町)でとりおこなわれた。 年に一度の祭りの日には、国造は、ふたかさねの餅をそなえものに持って、大庭へ出向いて行く。 大庭では、亀太夫という男が、これを出迎える。 この亀太夫という男が、熊野から火鑽を持ってきて、大庭の神官に渡した男なのである。 慣例によって、亀太夫はちょっとおどけた役を勤めなければならない。 国造が大庭の神社に持ってきた品に、なんでも片っ端からケチをつけるのだ。 亀太夫は餅を検(あらた)めて、難癖をつけはじめる。 餅が小さい、色が白くない、粉もきれいに引いてない、などと。 ありもしない餅のアラを言い立てるのに対して、神官たちは、いちいちていねいに、それを説明したり、弁解したりするのである。
国造が大庭に行く日か、あるいは、大庭から帰ってくる日か、どちらかの日に、毎年かならず、きまったように大あらしが吹く。 だいたい、この旅は、出雲でいちばん空模様の荒れる時期(新暦の十二月)に行われるわけだが、一般の信仰では、この時のあらしは、国造の神聖な人格と重大な関係をもっているものと信じられている。 この季節の定期的な大あらしは、この地方では「国造荒れ」といわれている。 出雲では、ほかの時期でも、たまたまあらしの吹く日に着いたり、出立したりする客があると、「まあ、ほんに国造さまのようであらっしゃるげな」とおもしろいことを言う習慣が、今でもある。
出雲の「火鑽」については、下記の「熊野大社の鑽火祭」というブログに詳しい。 https://blue32earth.blog.fc2.com/blog-entry-640.html
時代劇などで、出立の際に火打石をカチカチ鳴らすのも、この「火鑽」の風習と、火が持つとされる神聖さと厄除けの力からきているのだそうだ。
自然と人生をたのしく愛する日本人の魂 ― 2025/11/04 07:14
小泉八雲著、平井呈一訳『日本瞥見記』(上)第八章「杵築(きづき)」の最後に、ハーンは言う。 杵築を見たということは、これはただに珍しい社殿を拝観したというだけにとどまらず、それ以上のものを見たことになるのである。 杵築を見るということは、とりもなおさず、今日なお生きている神道の中心をみるということなのである。 古事記などに書かれていることは、はかり知れない無窮の過去から見たら、ほんの近世の記録にすぎないだろう。 それほど、今日のこの十九世紀に、大きな脈動をつづけている古代信仰、――杵築を見るということは、つまり、そうした悠久な古代信仰の脈搏にふれることなのである。
仏教は、時代を重ねるにつれて、その形式もかわり、今やようやく衰微の道をたどりつつあり、やがては、一個の外来宗教として渡来してきたこの国土から、消え去って行く運命にあるように見える。 ところが、それにひきかえて、神道は、いっこうに形も変らなければ、勢力もかわることなく、いまなお依然として、その生まれた国土で優勢を保っており、時代とともにいよいよ力と尊厳とを増して行きつつあるかに見えるばかりである。 仏教は、浩瀚なるその教義と、深奥なるその哲理と、海のごとき広大なるその文学とを持っている。 神道には、哲理もなければ、道徳律もなく、抽象論もない。 ところが、この実体のないということのために、神道は、他の東洋のいかなる信仰よりも、西洋宗教思想の侵入を排撃することができるのである。 神道は、西洋哲学に対してはよろこんで歓迎の手をひろげる。 そのくせ、西洋宗教に対しては、依然として神道は、強力な敵なのである。 これと戦おうとする外国ののぼせ屋連中は、ちょうど磁力のように、なんとも説き明かすことのできない、あるいは、空気のように破ることのできない、ふしぎな力が、かれらの必死の努力に対して、あっさりと肩すかしを食わせてしまうのを見て、明いた口がふさがらないでいる始末である。
神道のほんとうの姿は、書物や、儀式や戒律などのなかにあるのではなくて、じつは、国民の心情のなかにあるのである。 つまり、神道は、日本の国民的心情の、永遠不滅な、つねに若さにみちた、最も高い感情が、宗教的に発現したものなのである。 国民のあらゆる衝動力と、力量と本能とをそなえた、民族魂という一大精神が脈々として蠢動しているのである。
自然と人生をたのしく愛するという点では、日本人の魂は、ふしぎにも、古代ギリシャ人の精神によく似ている。 このことは、教養のない無学の庶民にも、はっきりと認めることができるだろう。
「神在月」の出雲(その1)(その2) ― 2025/11/05 07:14
私は10年ほど前に、出雲について、いろいろ書いていた。 読んでみると、面白かったので、二度にわけて再録する。
「神在月」の出雲(その1)<小人閑居日記 2016.11.12.>
10日の『夏潮』渋谷句会で、兼題の「神無月」の季題研究を発表するために、2011年5月にBSプレミアムで放送された「新日本風土記」「出雲」を見直した。 出雲大社では、拍手は四回打つ慣習だ、奥まで届くように。 (一般の神社は明治に定められた「2礼2拍手1礼」だが、昭和になって縛りが外れ、出雲大社は昔の「2礼4拍手1礼」に戻したそうだ。)
旧暦10月10日夜7時、出雲大社の西、稲佐の浜で神迎祭が行われる。 10月1日にそれぞれの神社を出発した八百万の神々は、海から海蛇に導かれて、やって来る。 神籬(ひもろぎ)という榊の枝に宿った神を、神社まで白い布で隠して(警察消防が容疑者や怪我人をブルーシートで隠すのは、その伝統だろうか)お連れする。 十九社(じゅうくしゃ)という出雲にしかない特別の社が、神々の宿舎だ。 十九の扉がある。 神々は、ここで一週間、泊まり込みで、オオクニヌシ(大国主)と縁結びの会議をする。 江戸期の浮世絵では、男女の名前が書かれた札を結び合わせている。 仕事の縁、農作物と天候の縁なども、結ぶ。
この一週間、出雲の人々は、穏やかな気持で過ごす。 朝早く、浜へ海の水を竹の筒(柄杓)に汲みに来る人がいて、新鮮な水で町の社を清める。 静けさが尊ばれ、一週間、掃除、ピアノ、神棚のある部屋ではテレビの音を控えて、静かに暮らす。 これを「お忌(い)みさん」という。 出雲の人が、一年で一番、神様を身近に感じる時期である。
神話では、高天原の主神アマテラス(天照大神(あまてらすおおみかみ))の弟のスサノオ(素戔嗚尊(すさのおのみこと))が、出雲に降り立つ。 スサノオは八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を得、アマテラスに献じた。 スサノオの子孫が、オオクニヌシ(大国主)で、出雲を豊かな国にする。 アマテラスは、その地を自分の子孫に継がせようとし、「国譲り」の使いを出雲に寄越す。 オオクニヌシの長男、コトシロヌシ(事代主)は温厚で国土献上を父に勧めるが、次男のタケミナカタ(建御名方)は力自慢、断固戦うことを主張、アマテラスの使者と戦う。 タケミナカタは負け、「国譲り」をすることになるが、オオクニヌシはその代り、大きな住居を求める。 「柱は高く太く、板は広く厚く」(『日本書紀』)。 それが出雲大社の壮大な神殿となる。
須佐神社。 伝八岐大蛇の骨を所蔵。 スサノオは乱暴者で、神の国高天原を追われ、出雲に降り立つ。 ここには八つの首を持つ八岐大蛇がいて、娘たちを食う、稲田姫もまもなく差し出されると聞き、結婚を条件に大蛇退治をする。 「八雲立つ 出雲八重垣妻籠(つまず)みに 八重垣作る その八重垣を」 あなたを守って暮す、日本初の神と人との恋物語。 八重垣神社には、鏡の池というパワースポットがあり、浮かべた紙にコインをのせて、早く沈むほど、早く恋が成就するという。
コトシロヌシ(事代主)を祀る美保神社。 12月、「諸手船(もろたぶね)神事」があり、使者が漕ぐ船を、事代主役の宮司が迎え、平安を願う思いを伝える。
祇園社 氷川神社には、タケミナカタ(建御名方)にまつわる神事がある。 10月10日の奉納相撲、アマテラスの使いとの力比べに由来すると伝わる。(つづく)
「神在月」の出雲(その2)<小人閑居日記 2016.11.13.>
奈良時代には、出雲は大和王権の支配下に組み込まれる。 出雲大社の平安時代の設計図「金輪(かなわ)造営図」(千家国造館)に三本を束ねた直径が3メートルの柱が9本あり、長さ100メートルを超える階段があった。 これほどの巨大な神殿をつくれる出雲には、強大な勢力があったことが考えられる。
出雲大社の千家尊祐(せんげ たかまさ)宮司。 千家家は、出雲国造家(出雲では「くにのみやつこ」を昔から「こくそう」と読み習わして来た)で84代、天皇家につぐ古い家系、アマテラスの第二子・天穂日命(あめのほひのみこと)の子孫と伝えられる。 (子息の千家国麿氏と高円宮家二女典子女王が2014年10月5日出雲大社で結婚。国麿氏は出雲大社権宮司。) 神様に直接願い事を告げられるのは宮司だけ。 世の中の平安と、天皇家の繁栄を、日々祈り続けているという。
祝詞「八雲立つ出雲の国の青垣山内(やまうち)に 底津磐根に宮柱太く立て 高天原に千木(ちぎ)高しにて鎮まります かけまくもかしこき天の下造らしし 大国主の大神の大御前に 国造恐(かしこ)み恐みまおさく」。
出雲大社では、60年に一度、遷宮が行われる。 「平成の大遷宮」が平成20(2008)年4月から28年3月まで行われた。 平成20年4月、ご神体を移す仮遷宮があり、本殿を修繕して、平成25(2013)年本殿に戻した。 本殿、天井には270年前江戸期に描かれた八雲之図(七つの雲の絵、完成させないという縁起をかつぐ)、心御柱(しんのみはしら)つまり大黒柱があり、南向きの正面は壁になっていて、その裏に御神座が西を向いてある。 西は海の方向、オオクニヌシの世界、常世の国がある、と考えられている。
8月、夕日を祀る神事がある。 島根半島の西端、日御碕(ひのみさき)神社(千家尊祐夫人の家は、ここの宮司)。 かつてアマテラスを祀る本殿があった島に(普段は人が入れない)、宮司が渡り、夕日に祈りを捧げる。
佐太神社。 旧暦10月、この神社では神様のためのデザートが供される。 『雲陽記』(1717年)に、神在餅(じんざいもち)の記述がある。 搗き立ての餅に焦げ目をつけて、砂糖を入れた小豆と煮込む。 上に縁起物の鰹節をのせる。 出雲大社の方向に向けて供える。 縁結びの会議が終える頃にお供えするしきたり。 神在餅が、ぜんざいになった。
旧暦10月17日、十九社では、去り行く神々をねぎらう感謝の祝詞が上げられる。 「お立ち」の声とともに、社の扉を三度叩く。 神々はそれぞれの国許へと帰る。
11月、献穀祭。 出雲大社に、収穫された米を捧げる。 その晩、「おじゃれもー」と、神を迎える言葉が響き、古伝新嘗祭(こでんしんじょうさい)、作物を神に捧げ、宮司が共に食事をとる神事が執り行われる(年に70ある祀りの最も厳粛なものだそうで、中には入れず外から撮影した映像。天皇の宮中祭祀を思わせた)。 一年間、神に仕えてきた宮司の力は、秋の日差しが傾くとともに衰えて来る。 神と共に食事をとることで、宮司は力を取り戻す。 そして神聖な石を噛む、歯を固めることは長寿につながる。 榊の小枝を手に、神に向って舞う。 神への感謝、勤労の約束をこめた歌「皇神(すめらみ)をよき日に祭りし明日よりはあけの衣をけ衣にせん」、実りに感謝するこの祭が終われば、明日からは普段着に戻り、懸命に働こう。
たたら製鉄。 奥出雲の木炭と、この地の良質の砂鉄。 三日三晩、燃やし続けると、玉鋼(たまはがね)に生まれ変わる。 職人、木原明さん。 炎の色が山吹色になるのを見極めると、10トンの砂鉄から1トンの鉧(けら)が取れる。 八岐大蛇伝説は、古代の権力者が、斐伊川上流にいた鋼づくりの技術を持つ人々を服従させた歴史かもしれない(ジブリのアニメ映画、宮崎駿監督の『もののけ姫』は、これを扱ったのだろう)。 スサノオが退治した大蛇から取り出したのは剣、天皇家を守る三種の神器の一つ天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)として、後の世に伝えられていくことになる。
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