梅棹忠夫さんの『わたしの生きがい論』2011/09/10 05:27

まだハガキに和文タイプで謄写版印刷していた時代の「等々力短信」第225 ~227号、1981(昭和56).8.15.~9.5.である。 その年、出版された梅棹忠夫さ んの『わたしの生きがい論』(講談社)を取り上げている。

 「みんながモーレツさに生きがいを見出して、文明が今のスピードで進んで いったら、どうしようもないことになる。みんながバカになって進歩にブレー キをかける以外に、われわれの未来はない、と梅棹さんはいう。そして、生活 がいちおう満ち足りた時、実利的な目的のない、おかえしを期待しない行為、 何か聖なる、完全な自己放出のでてくる可能性を見ている。/ 我田引水、「等々 力短信」も返信を期待する助平根性さえなければ、バカさ加減十分の神聖な自 己放出たりうるのだが……。」(225号)

 「文明の前途に、梅棹忠夫さんが見ている「壁」を、この小文で説明するの は、むずかしいけれど、一口に、自然に対しおごった人間がちょっとやりすぎ た、ということでなかろうか。/ ここまで生産と消費の規模が大きくなると、 地球的な規模で、やっかいな問題がいろいろ出てきた。このままでは、環境汚 染、資源の限界、人口爆発、飢餓など、そう遠くない未来に急激な危機到来の 可能性が、学問的にも計算され、認識されるにいたった。われわれは、この目 で地獄を見ることになるかもしれない、というのだ。」(226号)

 「この目で地獄を見るという悲劇をさけるために、われわれは何をすればよ いか。/ 梅棹忠夫さんの答は、「何もせんほうがよい」という無為無能のすす めだ。つくればつくるほど、役にたてばたつほど、おおきな意味で窮地におい こまれていくのだとすれば、「やめとこ」、「やめた方がましや」、ということに なる。これ以上、みんなが有為有能になったら、天井をつきぬけてしまう。こ んにちの社会は無為無能でもくえるのだから、と。/ これはマラソンの最中に ルールがかわって、ビリがほめられることになったようなものだから、小学校 のカケッコからビリを走りつづけてきた私はうれしくなってしまう。東に受験 地獄にあえぐ子供、西に会社で不遇のオヤジ、南にノイローゼで飛びおりる人、 北に社会のカヤの外の人各々あれば、行く気はないが『わたしの生きがい論』 をおすすめする。」(227号)

 ちょうど30年前、この時、私、40歳であった。