小田野直武『解体新書』の挿図を描く2025/11/29 07:11

 平賀源内が秋田を離れてからほぼ1か月後の、安永2(1773)年12月朔日、角館生れで角館育ちの小田野直武は秋田本藩の「銅山方産物吟味役」に任じられ、あわせて江戸勤務を命ぜられて、角館を出立した。 そのものものしい名の役職は要するに表向きのことで、「銅山」「産物吟味」の語が示すように、源内とかかわり、そのもとで「産物」の名目で蘭画を修業し、源内と藩主曙山との間の画事上の連絡役となれ、との藩主の特命だったのであろう。 直武は、源内に魅せられ、源内に見こまれただけで、この満24歳の年から、まったく思いもかけない運命の展開を迎えることとなった。 彼は十分にこの急変と圧力に耐えて、そのなかから残されたわずか7年の短い生涯の間に自分の天分を美しく開花させた。 彼を愛した主君曙山は直武よりも1歳年長にすぎなかったが、これも異様に華麗な蘭画の数々を花咲かせて、37年のやはり短い生涯を終えた。 秋田蘭画は近代日本の文化史上、小さいながらまことに心をそそる一課題なのである。 僻遠秋田にその種を播いたのが平賀源内であった。

 讃岐の浪人男の江戸の住まいに秋田の藩主お気に入りの青年がころがりこんで来て、一緒に洋風の明暗や遠近の画法を研究していたということ自体が、考えてみればすでになかなか面白い。 田沼意次の時代の社会的また精神的可動性(モビリティ)をそのまま図示するような情景であったといえよう。 と、芳賀徹さんは書いている。

 源内は、秋田から戻ると、しばらく深川に住んだあと、神田大和町代地(豊島町と隣合わせ)に家を借り、そこで二七の日には「産物会」を催し、直武のほかに4人ほど職人もおいて「本草細工人」と呼ばれる、一種の源内工房を営んで暮らしていたらしい。 直武は初めから源内方に同居の体で住み込んでいたようで、ときおりは大和町から大した距離のない下谷竹町の佐竹藩邸に挨拶や報告、給金を貰いに参上したろうが、もっぱら画業に精を出し、江戸の自由な空気を享受したと見える。

 源内が長崎にいた明和8(1771)年3月に開始された杉田玄白をはじめとする、源内の親友たちのグループの画期的大著述が、当時仕上げの段階を迎えていた。 杉田玄白、前野良沢、中川淳庵の『解体新書』――ドイツの医学者ヨハン・アダム・クルムス著の蘭訳本『解剖学表』(ターヘル・アナトミア)の翻訳作業である。 この書の生命というべき重要さをもつ、解剖図の木版下絵作成の仕事が、江戸にポッと出てほんの数カ月の、満25歳の無名画学生小田野直武にまかされ、彼によってみごとに遂行されたのである。 杉田玄白と源内の信頼関係と、源内の直武の画才に対する高い評価が、そこにはあったのだろう。

 クルムスの解剖図をはじめ、玄白が『解体新書』の「凡例」にあげているだけでも、トンミュス、ブランカール、カスパル、コイテル、アンブルと「解体書」と称する蘭書から、どの図をどのくらいの大きさに写してくれ、と注文されたのだろう。 その精緻な銅板挿図の刻線を一本一本、極細の面相筆で写しとっていった。 『解体新書』は、安永3(1774)年8月室町三丁目須原屋市兵衛から出版された。 安武が江戸に着いたのは前年12月半ばだから、直武に何十日の余裕が与えられたのか、当の安武にとってはまことにやり甲斐がありすぎるほどのきつい忙しい仕事であったろう。