豪徳寺、井伊家墓所と「桜田門外の変」2026/01/14 07:17

豪徳寺

 三田あるこう会、次に行ったのが豪徳寺。 世田谷に長く住んでいるが、豪徳寺へ行くのは、初めてだ。 「招き猫」の写真がSNSで広まってのことだろうが、行く途中で、外国人観光客と沢山すれ違うのに、びっくりする。 彦根藩二代藩主井伊直孝が鷹狩りの帰りに、門前で手招きする猫に導かれ寺の中に入ると、突如雷鳴が起こり、このことが縁で豪徳寺は井伊家の菩提寺になり栄えたそうだ。

 豪徳寺には、大老井伊掃部守直弼の墓を中心にして、彦根藩主井伊家の広大な墓所がある。 実は本日の当番、日下部共代さんが「桜田門外の変」の日下部三郎右衛門の子孫、日下部家の方だという話は、前に南麻布の光林寺へ行き丸亀藩主京極家や高鍋藩主秋月家の墓所があった時に聞いていた。

 安政7年3月3日は早朝から牡丹雪だった、午前9時頃、彦根藩上屋敷の門が開き、大老井伊掃部守直弼の行列60人余が、桜田門まで三、四町(約400m)を進んだ。 雪で視界が悪く、護衛の伴侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄、鞘ともに袋をかけていた。 行列が桜田門外の杵築藩邸の前に近づくと、水戸浪士の森五六郎が駕籠訴を装って行列の供頭に飛び出した。 彦根藩士・日下部三郎右衛門は、これを制止し取り押さえに出たが、森は即座に斬りかかったため、日下部は面を割られ前のめりに突っ伏した。 森が護衛の注意を前方に引きつけた上で、水戸浪士・黒澤忠三郎(関鉄之介、ほか多数とも)が合図のピストルを駕籠めがけて発射、これを合図に浪士本隊による抜刀襲撃が開始された。 防御側不利な形勢の中、彦根藩一の剣豪の河西忠左衛門や永田太郎兵衛正備も二刀流で奮戦し襲撃者側に重傷を負わせたが、共に倒れ、護る者のいなくなった駕籠に、次々に襲撃者の刀が突き立てられ、銃弾を受けて動けなくなっていたと思われる井伊直弼は討たれて、首級をあげられてしまった。

 豪徳寺、井伊直弼の墓のある井伊家の墓所の入口に、日下部三郎右衛門の墓と、大きな石碑がある。 藩主を護れずに生き残れば切腹のところを、藩主を護って討ち死にしたので、こういう扱いになっていると、日下部共代さんは話す。 御主人は次男なのでこの墓には入れないが、そのご両親は入っているという。 立派な石碑は、維新後、朝敵の筆頭格と目された彦根藩の不遇の中、筆で身を立てた子孫の書だと聞いた。

 世田谷区の中心部は、中世には吉良(きら)氏の所領で、この後、前を通った世田谷城跡が残っている。 江戸時代には、幕府領と彦根藩井伊氏の支配下となった。 この後、行った世田谷代官屋敷は、都内に現存する唯一の代官屋敷で、彦根藩世田谷領の代官を代々務めた大場家の居宅で、その居宅と表門は国指定重要文化財になっている。 門前の通りは、毎年12月と1月の15日、16日に世田谷ボロ市で賑わう。 ちょうど、明日明後日の開催だ。