『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』2026/03/21 07:17

 昨日「業界では〝お化け〟と呼ぶが、こつぜんと現われた大人気者には三遊亭歌笑がいた。 『歌笑純情詩集』と名付けたナンセンス創作落語が売り物だった。 この人は進駐軍のジープにひかれて死ぬ。」と引用した三遊亭歌笑だが、3月14日に東京スタジアムの話を書いた三田あるこう会で、初めに三ノ輪の浄閑寺(投げ込み寺)へ行った。 すると浄閑寺に、歌笑(本名高水治男)の墓があり、武者小路実篤筆の「三遊亭歌笑塚」があった。 歌笑夫人、高水二二子(ふじこ)の実家(松上家)が浄閑寺の檀家で墓もあったことから、ここの松上家の墓の隣に葬られたのだという。

 三遊亭歌笑のことと、歌笑夫人が美人だったことを以前「等々力短信」に書いていたので、それを引く。

      等々力短信 第1017号 2010(平成22)年11月25日

              『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』

 三遊亭歌笑の高座を見たことがある。 小学校に上がった昭和23(1948)年前後のことだ。 武蔵小山の映画館・大映は、歌笑が来るというので超満員だった。 入場にも時間がかかったのだろう、父母や兄と立見をしていて、小便がしたくなった。 我慢していたのだが、身動きが取れない上に、歌笑があんまり可笑しいので、温かいものが足を伝って流れて行った。 「電気の球の切れたのは、停電用にお使い下さい」とか、「我、若くしてトーダイを出たり、本郷にあらずして三浦三崎なり。歌笑純情詩集より」なんてぇのを憶えて、得意になってしゃべっていた。 昭和25(1950)年5月30日、その歌笑が銀座でジープに轢かれて死んだ。 三遊亭歌笑、強烈な思い出として残った。

 『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』(新潮社)を書いた岡本和明さんは昭和28(1953)年生れ、“ナマの歌笑”を見ることができなかったのが、残念でならないという。 歌笑(三代目)、高水治男は大正5(1916)年に五日市で生れた。 大正6年と書く本が多いそうで、亡くなったのは33歳、新聞の死亡記事は31歳になっている。 家は女工員が50人もいる製糸工場を経営する裕福な家だったが、視力が極度に弱く、斜視で、出っ歯で、エラが張った奇妙な顔の治男は、疎外され、いじめられて育つ。 母の乳の出が悪く、預けられた家に兄照政の同級生ヒサがいて、母代わり姉代わりになり優しくしてくれたのだけは例外だった。 高等小学校を出て、家業の手伝いをしながら鬱々としていた。 ヒサや女工達の前で、歌ったり落語をやったりして、味をしめた治男は、隣町秋川出身の金語楼に入門しようと家出する。 二度目の家出で、金語楼に会えた治男は、死んだ父を知っていた金語楼に、今は芝居をやっているからと柳橋を紹介されるが、ここでも断わられる。 それを知った兄照政が、金語楼に会い、金馬を紹介してもらって、入門を許される。 この兄が、いい。 治男は厳しい金馬に度々破門されるのだが、その度に魚や酒を持って行ったり、金馬の好きな釣りに誘ったり、謝りに行く。

 師匠の金馬は厳しいが、実は優しい人だった。 寄席でもいじめられ、親友の小きん(小さん)、笑枝(痴楽)、弟弟子の金太郎(小南)、名人桂文楽だけが味方で、あとは敵だった。 戦後の食糧難の世相に、妙な顔を逆手に、歌や、大学ノート40冊に書き溜めた小噺や詩を、リズム感のある七五調で演ずる三遊亭歌笑の芸は、底抜けの明るさとほのぼのとした温かさで、大ブレークした。 美人の奥さんももらった。

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