福沢の「智徳の進歩」を考える ― 2008/12/10 06:37
6日、福澤諭吉協会の土曜セミナーは松浦寿輝さん(東京大学大学院総合文 化研究科教授)だったので、楽しみにして出かけた。 松浦さんの話を聴くの は、今年、三回目になる。 5月30日福澤研究センター開設25年記念講演会 の「福澤諭吉のアレゴリー的思考」(6/8-6/11の日記参照)、11月1日折口信夫・ 池田弥三郎記念講演会の「柄傘(カラカサ)と力足(チカラアシ)―〈気〉と 〈土〉の詩学」(11/3-11/5の日記参照)、それぞれ面白かったので、くわしく書 いている。
今回の演題は「福澤諭吉と「智徳の進歩」」だった。 フランス近現代の文 学や文化を研究していて、19世紀後半から起きた大きな変化に注目した。 そ の「近代」というのは、どういう意味を持つのかを、考えていると、ほぼ同時 に日本でも同じような変化が起きていた。 明治の思想史を掘り返していて、 福沢諭吉と中江兆民に、はまった。 その言説の空間は、豊かな時代だった。
『文明論之概略』第三章で福沢は、「文明とは、人の智徳と進歩」だと言っ た。 第六章「智徳の弁」で、「智徳」を定義して、「徳」とは徳義、西洋の語 で「モラル」(心の行儀)、「智」とは智恵、「インテレクト」。 この徳義にも 智恵にも、それぞれ二様の区別があり、「私徳」と「公徳」、「私智」と「公智」 という四つのカテゴリーがある。 その中で、最も重要なものが「公智」であ り、これを「聡明の大智」といってもいい、と。
丸山真男は、福沢をプラグマティストと呼んだ。 福沢は、正論を言うだけ でなく、その時々の状況に応じて、まず明治国家にとって大切なものは何かと いうように、言うべきことを主張する「公智」が大事だとした。 それは「徳」 =「モラル」こそ大事という狭量な日本主義者の主張に反するものだった。 (つづく)
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