「動き出す!絵画 ペール北山の夢」展2016/09/26 06:22

 東京駅改装後は初めて、東京ステーションギャラリーへ行った。 「動き出 す!絵画 ペール北山の夢」―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家た ち―展(11月6日まで)である。 実は、高村光太郎が描いた「佐藤春夫像」 (大正3(1914)年)を出品なさっているというので、高橋百百子さんにチケ ットを頂いたのだ。

 これが素晴らしい展覧会だった。 なぜ「動き出す!絵画」なのか。 ペー ル北山なんて、聞いたこともなかった。 新聞広告のキャッチコピーをまずリ ード文代りに引いておく。 「大正の洋画界を震わせた熱き青年たちを支えた 男――北山清太郎。 当時の若者たちによる前衛的な作品と、彼らが憧れた西 洋美術。 日本では印刷物でしか見られなかった巨匠の作品と100年後、夢の 競演。」

明治末に次々に生まれた文芸誌、『早稲田文学』(第二次)、『スバル』、『白樺』 は、輸入された書籍や雑誌の図版を転載してヨーロッパ美術、ことにポスト印 象派(「後期印象派」と誤訳)の作品を紹介した。 なかでも『白樺』は、セザ ンヌ、ゴッホ、ロダンらを偉大な芸術家と称え、青年たちを感化した。 一方、 美術専門誌として情報の伝達に大きな役割を果したのが、北山清太郎(せいた ろう)が明治45(1912)年4月に創刊した『現代の洋画』で、木村荘八が編 集に加わっていた。 北山は、展覧会の開催にも尽力、作品の写真撮影など一 人で何役もこなすプロデューサー的存在として奔走した。 その献身ぶりから、 パリでゴッホらを援助した画材商のペール・タンギー(タンギー親爺)になぞ らえ、「ペール北山」と呼ばれるようになった、というのである。

 ヨーロッパでは、フォーヴィスム、キュビスムといった新傾向も生まれてお り、黒田清輝より後の世代の留学生たちは、新しい表現と出合って、帰国する。  梅原龍三郎はルノワールに、児島虎次郎はエミール・クラウスに、荻原守衛は ロダンに師事した。 新帰朝の画家・斎藤与里は雑誌でセザンヌやマティスを 紹介、高村光太郎は『スバル』(1910年4月号)に論文「緑色の太陽」を発表、 個性にもとづく芸術の自由を説いた。

 大正元(1912)年、斎藤与里を中心に、高村光太郎、岸田劉生、萬鉄五郎ら 若い画家たちがグループ「ヒユウザン(木炭)」会をつくり、第1回展覧会を 開催、北山清太郎が運営と目録の編集刊行を手がけた。 翌年表記をフュウザ ン会と改め、第2回展覧会を開くが、斎藤と岸田の芸術への考え方の違いもあ って解散した。 岸田は意思を同じくする高村、木村荘八らと、北山が発行元 を引き受けた雑誌『生活』から名前をとった、生活社主催第1回展覧会を開く。

 北山清太郎は、その後、巽画会(機関誌『多都美』)、草土社、『美術雑誌』な どで、大正15(1916)年7月まで、美術界で同様の活動を続ける。 そこに 関係する人たちは、今まで挙げたほか、中川一政、河野通勢、椿貞雄、清宮彬、 横堀角次郎などだ。

 北山清太郎が美術界から手を引いたのは、海外映画を観て、動く絵、アニメ ーションと出合ったからだった。 大正6(1917)年、日活(日本活動写真株 式会社)の協力を得て、5月20日第一作アニメーション作品「猿蟹合戦」を浅 草で公開した。 この年1月、国産第一作が公開されていたが、北山は同じ年 に最初にそれを手がけた日本人3人のひとりとなった。 以降、日活から独立 して日本初のアニメーションスタジオ、北山映画製作所を設立、アニメーショ ン制作に没頭することになる。