ジャズがシカゴやニューヨーク、世界へ広まった事情2018/11/19 07:12

 佐藤修さんの「ジャズの話」は、ジャズが南部のニューオーリンズから、北 部のシカゴやニューヨークに広まって行った背景と事情という核心に移る。  それにはルイ・アームストロング(1901~1971)、サッチモ(がま口のような 口)の功績が大きい。 紅灯街ストーリービルが閉鎖されて、職を失ったバン ドマンたちが北部へ流れて行く。 禁酒法の時代、シカゴやニューヨークでは ギャング(マフィア)が密造酒を飲ませる店をやっていて、そこではジャズの 演奏が大事にされた。 サッチモたちは、白人の客に受けようとする。 サッ チモは、デッカレコードへ行った。 ラテンの「キッス・オブ・ファイヤー」、 シャンソンの「ラヴィアンローズ」、ハワンアンの「小さな竹の橋」も演奏した。  当時、黒人は、白人の世界で「道化役」だった。 ここで佐藤さんは、“ベティ・ ブープ”の漫画映画でサッチモが音楽を担当、演奏する姿も映っているDVD を見せてくれた。 迎合しなければ広まらない、「受けた」ことで白人の世界に 広まって行った。 佐藤さんは、業界の一般論、ラテン、ルンバのザビア・ク ガート、マンボのペレス・プラード、さらにはフランク永井やペギー葉山に歌 謡曲を歌わせることによって、広まったのと同じだ、と言う。 八木節(栃木・ 群馬県境の日光例幣使街道の八木宿を中心にした地方の盆踊り歌)が全国に広 まったのも、明治後期、浅草の興行師が歌い手の堀込源太を連れて来たことで、 東京で「受ける」ようになったからで、本物(正調)ではない。

 一方、ニューオーリンズがどうなったか。 村祭のような黒人の演奏では、 食ってはいけない。 1944年にウィリアム・ラッセルがニューオーリンズに探 しに行ったが、ジャズマンはいなかった。 わずかにジョージ・ルイスがニュ ーオーリンズに残って、黒人を貫き通して、やっていたといわれる。

 トム・ブラウンのバンドが、シカゴのミラーのカフェで演奏していたが、ユ ニオンには入っていない。 ユニオンは、淫売屋の音楽など抹殺できると考え ていたのだろう。 トム・ブラウンは、ディキシーランド(南部諸州の意)・ジ ャズ・バンドの名を使い始める。

 佐藤修さんは、ポピュラー音楽はどんどん変わっていく、と言う。 同じこ とをやっていると、飽きる。 ジャズも、テクニックが上手くなり、一人一人 のソロを見せたい、となる。 歌謡曲が3分だったのは、SPレコードが3分 だったから。 初任給が5000円の頃、シングル盤が300円だった。 シンフ ォニーも第一楽章しか入らない。 NHKのクラシック番組でSPをかけると、 二台並べておいて、見事につなぐ名人の職人がいた。 LPになったらジャズ も、テクニックを見せたいと、片面20分もアドリブの演奏をする。 つまら なくなった。 ジャズ芸術と言い出し、悩まないといけない、ハッピーじゃだ め。 『スイング・ジャーナル』誌は、ビッグ・バンドとボーカルを認めてい ない。 ますます、つまらなくなった。 ジャズは、ロックに取って代わられ た。 電気楽器が発達し、観客が何万人でも演奏できる。 武道館でビートル ズが演奏し、音楽を何万人と共有するほうが興奮し、楽しい。 そういう世界 になった。 ジャズを志す人が、ジュリアードやバークリーに行くようになっ た。 学者のようなことを言って、面白くなくなった。

 佐藤修さんは、1956年、サッチモ、ルイ・アームストロングが、レナード・ バーンスタイン指揮のニューヨーク・フィルハーモニー(ルイゾーン・スタジ アム交響楽団?)と共演した映像を見せてくれた。 時代は変わった(ジャッ キー・ロビンソンが、黒人初の大リーガーと言われたのは1947年。)、白人の 象徴と、黒人の象徴の画期的な共演である。 演奏されたのは「セントルイス・ ブルース」、聴いていた作曲者のW・C・ハンディが、帽子を取り、頭の上に乗 せていたハンカチを手にして、涙をぬぐったのが感動的だった。