「木簡」の爆発的増加は、律令制度の導入と共に2018/11/22 06:57

現在までのところ、670年代、天武天皇の時代以前の「木簡」はわずか100 点程度しか確認されていないのに、670年代、天武天皇の時代になると状況は 一変、数千点の単位に及ぶ。 さらに藤原宮の時代、7世紀末から8世紀初頭 までには、「木簡」は、都のあった橿原市の藤原宮跡や畿内の周辺だけではなく、 北は仙台から南は九州までの遺跡から出土しており、その点数は、3万点をは るかに超えているといわれている。

なぜ天武天皇の時代に「木簡」が爆発的に増加するのか。 7世紀の年を記 した「木簡」は、乙亥年(天武天皇4(675)年)以降のものが、ほぼ連続して 出土しており、この時代に「木簡」が増加する様子がわかるが、その内実は、 諸国からの荷札と、役所で用いられた文書だった。 荷札は、各地の特産品な どを貢ぎ物として都へ送ったり、都での労働に従事するため徴発された人々の 生活費を地元から送ったりする時、その荷物に付けられた。 都と地方との関 係が密接になるとともに、役人の仕事は量も増え、また複雑になっていく。 役 人が命令を伝えたり、報告したり、事務連絡をしたりする場合、文書が用いら れるようになる。 米などの支給、日々の出来事、さらに重要な命令の内容な ど、さまざまな記録も作成された。

大量に作成された記録が不要になった時、木に書かれたものは、その特性を 活かして古い記述を削り取り、新しい「木簡」へと作り替えられることもあっ た。 この過程で、大量の「削屑(けずりくず)」が出現する。 「削屑」の点 数は、古代木簡全体の8割以上を占めているが、山本崇主任研究員の調べた限 りでは、その出土点数は藤原宮の時代までで3万5千点、さらに「木簡の世紀」 奈良時代のものは22万点を超えている。 この時代に始まる「木簡」の爆発 的増加は、実は「削屑」の増加によるもので、文書、荷札、削屑の増加は、ま さに律令制度の導入と歩みをともにするものといえるのだそうだ。