津軽家文書で読む慶應留学生の生活2016/05/22 06:48

 二日目の14日は、弘前市立図書館へ行き、用意しておいていただいた同図 書館蔵の津軽家文書、江戸藩邸の日記「江戸日記」寛文8(1668)年~慶應4 (1868)年、廃藩置県後の「御用留書」慶應4(1868)年~明治3(1870)年 の、弘前藩から慶應義塾に派遣された勤学生(留学生)関係の部分を拝見した。  これは以前、福澤研究センターで坂井達朗先生を中心に、今回の旅行にご参加 の小室正紀先生、それと松崎欣一、米山光儀両先生が数日間、調査研究された 史料だった(坂井達朗「幕末・明治初年の弘前藩と慶応義塾―「江戸日記」を 史料として―」(『近代日本研究』第10巻、1993年)としてまとめられた)。  図書館からは、史料を用意して下さった福井敏隆さん(弘前市文化財審議委員 長)が立ち合って、いろいろと質問に答えて下さった。

 私たちは古文書を読めないから、小室先生、川崎勝先生ご夫妻(夫人が中世 がご専門とは知らなかった)が、関係個所を見つけて、用意の付箋をはさんで くれる。 面白いところを、いくつか、紹介する。

 元治元・慶應元年段階では、福沢諭吉の姓名も、藩の「日記方」には完全に 認識されていなかった。 「雄吉」、「英喜」と書いている。(「江戸日記」「雄吉」 …元治元年9月4日、「英喜」…慶應元年1月24日、閏5月19日) 津軽弁 を聞き取った為かどうかは、よくわからないという。 それが塾生の増加で、 弘前藩と慶應義塾・福沢は急速に接近する。 藩が洋書を購入するのを福沢が 助ける。 門下生岡田摂蔵洋行の際など。(「江戸日記」慶應2年2月24日、 慶應3年6月10日、7月10日)

 国許を「出奔」した塾生(佐藤弥六の名が見える)を慶應義塾にかくまって 勉学させる。(「江戸日記」慶應4年2月27日、幕末で締め付けが緩く、寛大 になっている。)

 勤学生への藩の補助と勤学生の生活。 最低限の学費と生活費を保証する。  勉学に必要な書籍は藩が購入して、学生に貸与する。(「江戸日記」慶應2年9 月7日、「同上」慶應3年9月10日) 「福澤洋学生」の場合は、慶應義塾で 定めた「受教料」を藩が支払う。 明治2年、毎月2歩から1両に倍増。(「御 用留書」明治3年7月27日) 幕末からのインフレの進行で、藩も勤学生へ の手当(「諸渡方」)を増加せざるを得ない。 明治3年閏10月には、一人宛 て「五両二人扶持」に増額。 明治2年8月、福沢が「慶應義塾新議」に書い ている留学費用、米の相場を1斗1両として、「一ケ月金六両にて……不自由 なかるべし。但し飲酒の入費は容易せざるは勿論……迚も肉食の沙汰に及び難 し。一年百両ならば十分なるべし。」 月額「五両二人扶持」ならば、1年96 両余になる勘定だ。

 勤学生の数が増大して、その費用が藩邸の会計を圧迫する。 学生に自治組 織、「幹督」という役職を作らせて、自ら律するように求める。(「御用留書」明 治3年3月1日)

 留学生はいずれも、ごく貧しい。 書籍のみならず、生活用品、衣類、果て は刀剣までも藩にねだっている。 礼服、大小も失くしている。(海軍稽古の7 人、海軍所に入門の際。「江戸日記」文久2年11月16日) 芝新銭座は蚊が 多かったらしく、蚊帳も買ってもらっている。(「御用留書」明治3年5月15 日)

「報道ステーション」のコメンテーター2016/04/30 06:26

 4月11日から富川悠太アナウンサーをキャスターにリニューアルしたテレビ 朝日の「報道ステーション」だが、コメンテーターを後藤謙次さん一人にした のが、まったく面白くない。 後藤謙次さん、肩書は「共同通信社 元編集局長  白鴎大学 特任教授」、66歳だそうだ。 古館伊知郎キャスターの時は、直近の ショーン・マクアードル川上、一年前の元経産省官僚の古賀茂明両氏の問題は ともかくとして、中島岳志さん(北海道大学公共政策大学院准教授から東京工 業大学リベラルアーツ研究院教授になった)は好きだったし、木村草太首都大 学准教授も真面目でなかなかよく、ハゲ頭の立野純二朝日新聞論説主幹代理も 朝日新聞丸出しで分かりやすかった。 古くは、中国が専門の朝日の記者で、 同志社大学の教授になった加藤千明さんが穏やかでよかった。

 金曜(たまに水曜)ゲストのコメンテーターも、多士済々だった。 井手英 策慶應義塾大学経済学部教授は、この番組で知って、2015年7月25日の「等々 力短信」第1073号に「井手英策教授の格差是正論」を書いた。 「里山資本 主義」の藻谷浩介さんを知ったのも、ここだ。 鳥越俊太郎、片山善博、御厨 貴、寺島実郎、浜矩子、そして前には天野祐吉、月尾嘉男、堀田力、佐山展生、 石田衣良、星浩、佐野眞一、佐高信、湯浅誠、佐々木常夫、財部誠一といった 方々の、顔と人柄も覚えた。

 福沢諭吉から引いて、筑紫哲也さんが「NEWS23」でテレビコラムのコーナ ーの題に使っていた「多事争論」こそが、この種の番組にふさわしいのだ。 早 急にコメンテーターを増やすように、改善してもらいたい。

 と、ここまで書いておいたら、昨29日(金)磯田道史さんがコメンテータ ーとして登場、熊本大分地震に関連して、江戸時代初期に同じような地震を端 緒に、三陸の地震と津波、さらに中央構造線が動く地震が相次いだことを述べ ていた。 磯田道史さんはいい、昨年6月『無私の日本人』(最近、その内「穀 田屋十三郎」が映画『殿、利息でござる!』になった)について書いたが、国 際日本文化研究センター准教授になっていた。

「東アジアの近代とアメリカ留学」2016/03/17 06:30

 3月11日、慶應義塾福澤研究センターの「東アジアの近代とアメリカ留学」 というワークショップが三田キャンパスの南館5階のディスカッションルーム であり、出かけた。 南館というのは、てっきり南校舎だと思って5階に行く と、それらしい会場がない。 1階に下りて、女子学生に訊くと、親切にスマ ホで検索して、演説館の奥の建物だと、教えてくれた。 スピーカーは、高木 不二さん(大妻女子大学短期大学部名誉教授)と崔徳壽(チェトクス)さん(高 麗大学校文科大学韓国史学科教授)だった。

 高木不二さんは、アメリカの社会学者ウォラーステインのシステムを下敷き にして、この問題を考える。 18世紀半ば、東アジア地域システムが、大きな 欧米中核諸国を中心とする資本主義的世界システムへ強制的に編入された。  経済では、自由貿易を前提とした世界分業体系への編入。 政治では、資本主 義的世界システムの受け入れと維持を前提にした外交関係への改編。 文化で は、中道(穏健な)自由主義(リベラルデモクラシー)を前提とした資本主義 的世界システムに適応した文化装置の受け入れ。 東アジア地域システム(儒 教的世界観を共有するゆるい地域統合体)のなかでは、中華としての中国(清 朝)があり、その周辺に朝鮮・ベトナム・琉球などが階層的に位置づけられ、 その外延部に日本が位置した。 中華システムの安定の上に、日本の鎖国は成 り立っていた。 このシステムの、文化は華夷(かい)観念的世界観、外交は 文化的に劣位に属する国が中華帝国に礼をつくす外交関係、経済は宗主国と藩 属国とのあいだの朝貢貿易を前提とする交易だった。

 そのシステムが資本主義的世界システムへ強制的に編入させられて解体する と、中国・朝鮮・日本はあらためて欧米中核諸国との関係を軸に、それぞれ自 らの進むべき方向と、お互いの関係性のあらたな方向を模索することになる。  それは外交にとどまらず、政治・経済・社会・文化・軍事の分野におよぶ多様 で構造的な「国家」的対応を必要としたが、高木さんはこうした動きを東アジ アにおける近代化の過程ととらえ、その対応の内容と特徴を欧米留学という視 点から探るのが、今回の企画の狙いだと考えた。 そして留学生の個別事例か ら、具体的問題点をさぐりだす。

 高木不二さんは昨年『幕末維新期の米国留学 横井左平太の海軍修学』(慶應 義塾大学出版会)を出版した。 事例研究1に、その横井左平太(1845~1875) をとりあげる。 私は横井左平太を、まったく知らなかった。

武士道の「公」意識と近代史2016/03/14 06:34

 「司馬遼太郎思索紀行 日本人とは何か」、第二集「「武士」700年の遺産」 のつづき。 『ブラタモリ』「小田原」でも出てきた話になる。 戦国時代の小 田原、「町づくりの原点、文化の原点は北条にあった」。 家臣と領民をかかえ る大名である北条早雲は、武士はどう振る舞うべきかの心得、家訓「早雲寺殿 廿一箇条」を出した。 早起きをしろ、上下万民に一言半句も嘘(虚言)を言 ってはならない、他の者に質されれば恥と思え、など。 早雲は、伊豆一国を 支配し、これを「領国化」した。 まことに独創的で、領民の面倒を一切見る という支配の仕方。 その代わり、惣(村)の自治をおさえ、惣の若衆を領国 の戦力として吸い上げ、これを山野に駆って、早雲は関八州を支配した。 こ こに、伊豆人にとって、北条氏とその領国が「公」になった。

 「名こそ惜しけれ」。 恩義のある人のために→この領国のために、に変わっ てくる。 家訓、法令が、「公」の意識に高まり、全国に広がる。

 秋田藩の秋田沿岸、新屋(あらや)地区(秋田市)、栗田定之丞(さだのじょ う)十五石の貧しい下級武士が、飛び砂に数百万本の松を植え、二十里の海岸 砂丘に防風林を作った。 十五年以上、先のことを考え、「だだのじょう」と呼 ばれる。 八年も試行錯誤を続けるその姿に、人々の意識が変わり始める。 女 性、子供、手伝いの者までが参加、十四年間で七万人以上が参加した。 地域 のためという「公」の意識が庶民の間にも広がった。 貧しさの中に、誇りを 見出し、「公」に奉ずる気分が強かった。

 幕末、迫りくる欧米列強。 人はどう行動すれば美しいか、公益のためにな るか、この二つが幕末人をつくり出している。(『峠』あとがき)

 明治の近代化。 武士たちの意識が、庶民にも根づいていた。 全国に広ま った郵便制度は、明治政府は各地域の名主に依頼して特定郵便局をやらせ、こ の国をよくしていきたいという心意気により、4年で郵便ネットワークが完成 した。

 日露戦争のあと、それが変質する。 司馬遼太郎さんは、明治38(1905) 年の日比谷焼き討ち事件、その大会と3万人が暴徒化した暴動こそ、むこう40 年の魔の季節への出発点ではなかったかと、考えている。 この大群衆の熱気 が多量に蓄電されて、以後の国家的妄動のエネルギーになったように思える、 と。(『この国のかたち』)

 統帥権を軍部が拡大解釈して独走、参謀本部が秘密結社よろしく日本を乗っ 取った。 「公」の意識が、危機の時代を、非常に悲劇的なものにした。 司 馬さんは、熱中すること、熱狂することを嫌った。

 戦後復興。 司馬さんは、民主主義を肯定し、好きだった。 日本人の気質 や慣習に適った自由な社会だと思った。  日本人一人一人がたしかな個をつくり上げていかなければ、ふたたび国が亡 ぶかもしれない。 「立憲国家は、人々、個々のつよい精神が必要なのです。 戦後日本はまだまだできていません。」

 「私ども日本社会は武士道を土台にして、その“義務”(公の意識)を育てた つもりでいた。しかし、日本の近代史は必ずしもそれが十分であったとはとて も思えない。いまこそ、それをもっと強く持ち直して、さらに豊かな倫理に仕 上げ、世界に対する日本人の姿勢をあたらしいあり方の基本にすべきではない か。」(『全講演』より)

『福澤諭吉事典』の『丁丑公論』2016/03/02 06:32

 『福澤諭吉事典』では、小川原正道さんが〈生涯〉「西南戦争」、〈人びと〉「西 郷隆盛」、そして〈著作〉『明治十年丁丑公論・瘠我慢の説』の項目を解説して いる。 〈著作〉の『丁丑公論』についての部分で、大事だと思われるところ を引いておく。

 「「丁丑公論」は、明治10(1877)年の西南戦争終結後すぐに執筆されたも ので、かつて維新の元勲として賞賛していた西郷を賊として扱う新聞雑誌を不 満とし、西郷が示した「抵抗の精神」を専制政治に抵抗する精神として、また 西郷の人格を士族の気風や「文明の精神」を宿したものとして、高く評価した。」

 「福沢諭吉は、鹿児島士族の割拠を許して貧窮に追い込み、みずからは奢侈 を極めてきた明治政府にこそ反乱勃発の責任があると指弾する。一方、西郷も 地方自治に力を入れて言論や学問、産業によって抵抗すべきであったと指摘し た。ここでいう抵抗とは権力の偏重に修正をうながすものであり、福沢が好ん で使った「独立」「私立」と同義であったといえる。」

 「「丁丑公論」は執筆後長く公にされなかったが、西南戦争から20年余りを 経て時事新報記者の石河幹明が福沢の自宅で稿本を発見し、福沢の許可を得て 明治34年2月1日から10日まで8回にわたって『時事新報』に掲載した。」  連載中の2月3日に、福沢が亡くなった。 「丁丑公論」は「瘠我慢の説」と 合本して、34年5月に刊行された。