マーク・リラ教授の「米国の二つの「カースト」」 ― 2025/04/29 07:14
実は、渡辺将人准教授の「米リベラル 失速のわけ」の翌日(1月9日)の朝日新聞「インタビュー」は、米コロンビア大学教授のマーク・リラさんの「米国の二つの「カースト」」だった。 マーク・リラ教授は、エリート主義に陥るリベラル派の自滅に警鐘を鳴らしてきた政治哲学者だそうだが、米国は左右というより上下に分断されている、と語っている。
特に、身体的・経済的な健康管理のあり方は象徴的で、今日、米国には2種類の体つきの人がいる。 つまり、一般に太り気味でしばしば肥満の労働者階級と、健康で食にこだわりエクササイズと医者通いを欠かさぬエリート階級だ。 かつては労働者階級からエリート階級に上がるための「はしご」がたくさんあった。 高待遇の肉体労働の仕事があり、子供たちのための良い学校があり、賃金を守る労働組合があった。 しかし今では、「はしご」はたったひとつしかない。 大学に入るか、入らないかのどちらかで、20代になる前に一生が決まってしまうのだ。 今日、米国における文化的格差は、地理的な要因ではなく、教育によるものである。 今や労働者階級から抜け出すためには大学教育が必須だが、3分の1の人はその恩恵を受けられていない。
この格差がもたらす結果は、経済的なものだけではない。 大学は、有利な職に就くための訓練を提供するだけでなく、学生を低学歴者とは大きく異なる新しい生活スタイルに社会化する。 人前での身の処し方、食事の内容、子供の人数と育て方、お金の管理…。 これらをめぐって両者はまったく別の考えを持つ、いわば二つの「米国人」に分岐するのだ。
フランスの政治思想家トクヴィルはかつて、極端に異なる生活スタイルは政治的利害を共有する人々を隔て、相互の認識や友好も不可能にしてしまうと述べた。 米国での新しい文化的格差は、埋めるのが困難なほど深刻化しているのだ。
米国のエリート層には道徳的な傲慢さがある。 伝統的家族を抑圧と見なし、いかなる「差別的」なユーモアに対しても極めて批判的で、重苦しく、とにかく陰気―。 民主政治とは「説得」であって、決して「自己表現」ではないのだ。 リベラルが本気で右派からこの国を奪い返したいと願うのであれば、今すぐに説教壇から降り、人々の話に虚心坦懐に耳を傾けるべきだ。 民主主義にとって第一の、そして最も必要な条件は「包摂感」である。 逆に、羞恥心や憤りといった感情と共に広く共有される排除意識は、民主国家にとって極めて有害だ。
ラストベルト(中西部の工業地帯)では、白人労働者の苦境が表出している。 不信、軽蔑、憤り、反感、自閉、こうした感情はマイノリティー、特に黒人が抱えてきたものだが、白人の多くの層が初めて、はるかに大きな規模で経験しているのだ。 相互承認は解け去り、包摂の危機が広がっている。 そして、それをどうすれば止められるのか、答えを見失っている。
アイデンティティー政治は、本来はリベラリズムとともにあった「私たち」という言葉を、政治の議論から追放してしまった。 そこでは、人々の共通項ではなく差異こそが模索されるべきものになる。 民主政治の中心概念である「市民」とは、個々人の属性とは無関係に、政治社会の構成員である他のすべての同胞と絶えず結びつき、社会における権利と義務を兼ね備えた存在である。 問われているのは、リベラルが市民の結びつきを強める方向に進めるかどうかだ。 属性を細分化し差異を強調することで人々を限りなく分断化していくのではなく、私たちがいかに多くのものを共有し、互いに恩恵を与えあっているかを、強く訴える必要がある。
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