東日本大震災直後の畠山重篤さん2025/09/15 07:20

 畠山重篤さんの「追想」(4月19日・朝日新聞夕刊)。 三浦英之記者は、東日本大震災発生直後の2011年3月23日、壊滅した宮城県気仙沼市の養殖場の前で、畠山重篤さんの話を聞いた。 いかだ約70基、船5隻、作業場、加工場、冷蔵庫……。 ほぼすべてを失い、被害額は2億円。 同居の家族は無事だったが、老人ホームにいた最愛の93歳の母を亡くした。

 目をつぶり、風の音を聞いていた。 「こうするとね、何もなかったような気がするんですよ」。 目の前には「絶望」が広がっていた。 美しい海も、「世界一」のカキを育む養殖場も、跡形もない。

 「これも自然なんですよね。時々、人間にどちらが強いのか、見せつけにくる」

 それでも、山に落葉樹を植える活動はやめなかった。 3カ月後の6月にはもう、山の斜面にいた。 気仙沼湾に注ぎ込む大川上流の矢越山。 例年、植樹祭で掲げてきた数百枚の大漁旗は流失したが、1200人の賛同者とブナなど1千本の若木を植えた。

 「これだけの被害を受けてもなぜ、海とともに生きていこうとするのですか?」と問い掛けると、「三陸の海で生きようとする限り、津波という『地獄』は避けられない。でも、好きなんですよ。この海が。単に魚がとれるからじゃなくて、空気とか、風景とか、潮の香りとか。でも、うまい魚介類を食べられるというのはやっぱり大きいですよ」と、ひげもじゃの顔がフッと笑った、という。