平賀源内の≪西洋婦人図≫2025/11/28 07:05

 平賀源内は、25歳の宝暦2(1752)年のころ高松藩から長崎に遊学しているが、43歳の明和7(1770)年10月阿蘭陀翻訳御用として再び長崎へ行った。 この二回目の長崎で、吉雄幸左衛門などの通詞の家で、オランダ商館員から贈られた「画鏡(えかがみ)」、つまりビードロ絵(ガラス絵)、油絵や銅版画などを見たにちがいない。 幸左衛門から興趣に富む洋画技法の話を聞かされているうちに、自分でも一つ油絵の実験をしてみたくなったのではなかろうか、と芳賀徹さんはいう。

 もともと源内には絵ごころがあり、とくに西洋画とその顔料に人一倍興味をよせていた。 『物類品隲』(「非常ノ人」マルチクリエーター平賀源内<小人閑居日記 2025.3.26.>参照)には、「ベレインブラーウ」(ベルリン青)や「緑塩、蛮産スパンスグロウン」(スペイン緑)など、「紅毛絵ノ設色ニ用ウル」鉱物顔料についての記述もあったし、「産物図絵」のなかの「蔗(さとうきび)ヲ軋(しぼり)テ漿ヲ取ル図」は源内自筆だった。 西洋博物画の彩色銅版画に「形状設色皆真ヲ奪フ」(『物類品隲』)と感歎している。

 この源内が長崎にいる間に、油絵についてさまざまの新しい刺戟を受けて試みたのが、有名な≪西洋婦人図≫(神戸市立南蛮美術館蔵、41・5×30・5cm)だったのではなかろうか。 これは画面の左下隅に「源内」と署名があり、源内作と伝えられてきただけで、いまのところそれ以上の証拠はない。 なんらかの西洋画が原画としてあって、それを模した絵であったにちがいない。

 古賀十二郎氏の『長崎絵画全史』(昭和19年)以来指摘されているように、この源内の≪西洋婦人図≫とよく似た、ただ顔の向きが左右逆なだけの西洋美人に紅毛男が戯れている図、というのが長崎に伝わっている。 Gaseoとローマ字でサインされ、それを古賀氏は仮りに雅章(がしょう)と読んでいる。 長崎系洋風画家の作にはちがいないが、長崎の洋風画が盛んになるのは、実は源内の再遊より大分後になってからなので、正体不明のGaseoもおそらくは源内より後の人であろう、という。 ただ、このGaseoの絵があることによって、源内もなにか同じ西洋人の作を粉本としていたことが確認されるのである。

 乳房のわかれ目をわずかにも見せるほど胸をあらわに張って、キュッとこちらにふりむいた妍美な細面。 大きくみひらいて瞳のきらめきを見せ、まつ毛さえ描きこまれた独特の眼。 眉から鼻につづいて強く彫りこまれた線。 漆を塗ったように黒く盛り上がった髪の毛には、赤い花を挿し、青い珠のヘア・バンドをする。 唐草風にうねる巻き毛には、大きな赤いリボンが結ばれている。 首飾りにも光をおびた赤い珠。 襟もとを広くあけた洋服は、まるで紙製のように見えるが、これもけっこう濃淡を工夫した赤である。 とは、芳賀徹さんならではの、≪西洋婦人図≫の描写鑑賞である。

 明和初年の大小絵暦の流行に際し、源内がデザインして「大いに評判」を得たのは、有名役者の「半身宛」の「似顔の画」であった。 その線上で、この≪西洋婦人図≫は、油絵による源内流の錦絵であり、後年の歌麿らの「大首絵」の先駆けでもあったのである、と芳賀さんは指摘している。

 一昨日書いたように、『べらぼう 蔦重栄華乃夢噺』第44回「空飛ぶ源内」で、源内生存説に関連して、蔦重は、田沼の家臣三浦庄司や大田南畝にも聞き込みをし、源内が描いた西洋画(蘭画)「「西洋婦人画」、≪西洋婦人図≫を手に入れたのだった。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック