阿波徳島に残る、写楽・十代藩主蜂須賀重喜説 ― 2025/12/24 07:18
5月23日に発信した「等々力短信」第1191号「咸臨丸の一生」で紹介した、『関寛斎評伝 医は仁なり』の志摩泰子さんは、阿波徳島のご出身である。 毎月の「等々力短信」への返信の中で、東洲斎写楽について教えていただいたものがあった。 謎の絵師、東洲斎写楽は一般には阿波蜂須賀家お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛とされているが、徳島では十代藩主蜂須賀重喜ではないかと根強く囁かれているのだそうだ。 重喜は、秋田新田藩から養子に来た殿様で、秋田蘭画の佐竹曙山義敦の四歳上のおじに当たるのだという。 重喜公は、大坂商人との癒着の解消や質素倹約などの改革を進めるが、保守的な気質の強い阿波の人々との間に波風が立ったのが、幕府の知るところになり、32歳で別邸大谷屋敷に蟄居させられた。 すると一転、治昭に藩主の座を譲り、打って代わったように派手な生活を送り、子供も多く作っている。 その姫は鷹司や彦根藩に輿入れしている。 重喜は大谷公と呼ばれており、今度は贅沢三昧を幕府に咎められ、大谷屋敷を跡形もなく壊し、江戸の藩邸で幽閉されることになった。 治昭の陳謝、老中松平定信のとりなしにより、別邸富田屋敷で蟄居し二十年を過ごし、鬱々とした生活を送った。 ちょうどその時期が、写楽活躍の一年足らずと重なることから、阿波に来る前に描いた絵の生き生きとした迫力から、写楽は重喜公ではないかと、密かに言われているのだそうだ。 息子の治昭が、さらなるお咎めを受ければ、藩が取り潰しになるかもしれないと、絵師の名が明かされるのを避けたのではないか、というのだ。
(参照…平賀源内の秋田行と、小田野直武、佐竹曙山の「秋田蘭画」誕生<小人閑居日記 2025.11.27.>、平賀源内の≪西洋婦人図≫<小人閑居日記 2025.11.28.>、小田野直武『解体新書』の挿図を描く<小人閑居日記 2025.11.29.>)
重喜は幼い頃、秋田新田藩で朱鷺(トキ)に親しんでいて、家老に頼んで、かの初代蜂須賀小六正勝の旧領であった播州竜野で捕獲してもらい、阿波に放したという。 志摩泰子さんは、「夕焼けの美しい眉山の辺りをトキ色の羽裏の朱鷺が飛ぶこともあったかと思うと、ロマンがあります」と、書いている。 この朱鷺の話は、阿波の博物誌に記録が残っているだけで、後世の人には知られていないようだという。 入国間もない若き重喜候を、「朱鷺の殿様」と陰で呼んだそうだ。 職制・経済・藍の政策の改革、藩主の埋葬も仏葬から儒葬にし、重喜公以後、万年山に埋葬している。
徳島の南の那賀川の河口に平島(へいしま)という所があり、そこには阿波公方と呼ばれる足利尊氏の子孫が三好長慶の保護の下、阿波に来て以来ずっと守られてきていたが、重喜の代になって、阿波国外退去を決め、京都に移らせている。 これなども一揆の多発、重臣の反感と共に、大奥の大上臈松島を巻き込んで、幕府の咎める原因になったと、『探訪ふるさと阿南』に書かれているそうだ。
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