一橋治済のせいで徳川幕府はノホホンと半世紀 ― 2025/12/28 07:20
『英雄たちの選択』「「江戸城の怪人」御三卿 一橋治済の野望」のつづき。 松平定信は、偉いのは、将軍を任命する天皇であるという「大政委任論」の立場。
大石学さん…松平定信の立場は、官僚実力主義で考えていきたい。 家格性、家柄性、血統ではなくて。 将軍家斉には政治に余り口出しして欲しくない、それが父親まで一緒になって、勝手な政治をされたら、幕政が崩れる、と。
中野信子さん…一橋治済は、格上の家(田安の定信)から、筋論を言われてしまうと、とても嫌な言い回しをされた、図星という感じ。 理屈対本能。
寛政5(1793)年、光格天皇が「父親に太政天皇(上皇)の位を与える」承認を、幕府に求めてきた。 119代光格天皇の父・典仁(すけひと)親王は天皇の位に就いたことがなかった。 将軍家斉と一橋治済の関係と、同じ関係。 定信は、この「尊号」問題をはね返す。
寛政5(1793)年5月、定信は老中と将軍輔佐役の辞表を提出する。 その裏では、将軍に慰留され、さらなる高い地位、大老の地位に昇ることを望んでいた。 将軍家斉が成長し、本多忠籌らは定信のワンマンぶりに反感を抱くようになってきていた。 定信は、政権内で孤立する。 前年の寛政4(1792)年には、オロシャの使節ラクスマンが来航、通商交易を求めて来ていた。 寛政5年7月23日、定信は老中と将軍輔佐役の両役を解かれる。 治済は、定信を政権から追い出すことに成功する。
将軍家斉は53人の子を設け、子女を送った21家に、その血を引く大名ができる。 国内政治は安定する。
文政10(1827)年、治済は准大臣に昇進後、77歳で死去する。 十一代家斉、十二代家慶、十三代家定、十四代家茂まで、直系が続き、「一橋幕府」の様相を呈する。
ところが、治済の死から26年で、幕府は開国に踏み切ることになり、慶応4(1868)年鳥羽伏見の戦い、尊王思想の志士は「大政委任論」、幕府の命運は尽きる。 治済は、寛永寺の一橋家墓所に葬られている。
大石学さん…治済は、幕府の命運を縮めた。 血縁、みんな家族だと、なかなか政治力を発揮できない。 中野信子さん…ファーストは、短期的戦略を取る。 国難があろうと、自分たち家族が大事。 政治力のある人は、必ずしも国のことを考えているわけではない。
磯田道史さん…徳川幕府は、1800~1850年の大事な半世紀を、ノホホンと過ごす政権になった。 吉宗、田沼、定信、この三人ははっきり、それまでの幕府政権と違うことをやっている。 官僚制、法制度を整備、学校を建て、外国から知識を導入することを、さんざんやった。 それが、治済の登場によって、ストップしてしまった。 天保期には、西洋の知識を持った人間を捕えて牢屋に入れ、殺し始める。 幕府を延命しようたって無理、外国の力は甘くない。
大石学さん…皮肉なことに、文化文政に、日本的文化、庶民文化ができる。 太平の眠りは、楽しい、誰も不幸にせず、無理もせず。 だが、その先には滅亡という崖のある幕府になっていく。 官僚制が物差し。 アンシャンレジームを解体していく過程なんだけれど、まだ古い余地が残っている。
中野信子さん…血の支配、現代も平等とは感じられない。 持論「私たちは理性ある人間の世の中には住んでいない」「野生のホモサピエンスランド」。 現実のルール、血筋力で順位が決まっていく、それをよく知っている人が力を持つ。 何とか良くしようとする人が、苦闘してるのも現実。 試されている。
磯田道史さん…政治、俗なだけでやっていては駄目。 知性とか知識とか理想とか能力とか練達というようなものが、一方で要求される。 両方できる奴が、俗なものを理解しながら、知識や理想や能力や柔軟性を持ちながら、時代に合わせて、多数者の幸福を実現していく。
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