失望と焦燥の捨松に、陸軍卿・大山巌の求婚2026/06/27 07:13

 名門女子大学ヴァッサーを優秀な成績で卒業した捨松を待っていた日本の社会は、旧態依然だったのである。 日本政府派遣の女子留学生第一号として、捨松も梅子も日本の女子教育の普及向上のために役立とうと、大きな夢を抱いて帰国したにもかかわらず、現実には捨松のような階層の未婚の女性が出来る仕事といえば、英語の個人教授ぐらいしかなかった。 先に帰国していた繁子は、二人の帰国を待って海軍省勤務で留学経験のある瓜生外吉と結婚した。 その新婚の家は、欧米から帰国した若者達のサロンになっていて、失望感と焦燥感に襲われている捨松と梅子の心のオアシスとなった。 繁子は、東京音楽学校でピアノを教え、給料は月30円、当時の女性で一番の高給取りだった。

 ようやく文部省から捨松のところに、東京女子師範学校で生物と生理学の教師、月50円という話が来た。 だが、日本語の読み書きは小学生程度、日本語の教科書を使い日本語で黒板に字を書くことなど、とうてい不可能だった。 家族からも反対を受け、捨松はこの話を断念せざるを得なかった。 帰国から4か月(1883年2月20日)、捨松のアリスへの手紙、「今では、日本に住む以上は、女性は結婚しなければならないと考えるようになりました。とにかく女性には結婚が必要なのです。結婚しなければどうにもならないのです。」 社会の現状を変えるには、結婚すること、ステータスがないと仕事もできない。

陸軍卿の大山巌から、山川家に二度も捨松との結婚の申し込みが来た。 24歳になった捨松とは、18も年上で、前年の8月に妻沢子を亡くしたばかりで、7歳を頭に3人の娘がいる。 大山巌は、西郷隆盛の従兄弟で、捨松がアメリカへ出発した明治4年、陸軍少将として近代兵器を研究するためヨーロッパを巡り、半年後にはフランスに留学した。 大山巌と捨松の出会いには、諸説ある。 瓜生外吉・繁子の結婚披露パーティーで上演された、シェークスピアの『ヴェニスの商人』で捨松が「ポーシャ」を演じたのを見た。 三井物産社長の益田孝は、瓜生繁子の実兄、その御殿山の邸で捨松や繁子や梅子がテニスをしているのを見て、見染めた。 大山巌は、洋行帰りのハイカラ好みとして知られており、時の政府高官として当然外国人との付き合いも多く、しかも家には幼い娘が3人もいる。 とても、並大抵の女性では大山夫人の役は務まらない。 そこで亡き沢子の父、吉井友実の目にとまったのが、アメリカ帰りで才色兼備の捨松だった。 大山も岳父から執拗に勧められると、捨松ほど自分の後妻にふさわしい女性はいないと思えるようになった。 自分好みのすらりとした美人だし、英語はもちろん、フランス語、ドイツ語にも堪能で、日本で大学卒の肩書を持った只一人の女性である。

 吉井友実を介して大山巌の意向が山川家に伝えられた。 その驚きは大きかった。 こともあろうに会津の宿敵ともいえる薩摩の軍人からの申し出である。 長兄浩にとっては大山巌は上司にあたるが、たとえ上司といえども受けるわけにいかない、ときっぱり断りの返事をした。

 説得役を買って出たのが、西郷隆盛の弟従道だった。 従道は、何度となく山川家に足を運び、「今や日本は日本人同士が敵だ味方だといって争う時ではない。一般の人の模範となるよう昔の仇同士が手を握って新しい日本の建設にあたるべきだ」と、力説した。

 兄浩の許可が出てからは、すべては捨松の気持ひとつに掛かっていた。 何回かデイトを重ねた捨松は大山巌との交際を始めて約3か月という早さで結婚を決意するのである。 明治16(1883)年11月8日、捨松は、参議、陸軍卿、陸軍中将大山巌夫人となる。 日本の女子教育向上のため一生を捧げる覚悟でアメリカから帰国してから、ちょうど一年の時が流れていた。 久野明子さんの指摘する「大山捨松のチャレンジ」の一つである。