杏の里の染織家と志村ふくみさん ― 2025/04/18 07:24
15日、銀座和光のセイコーハウスホールへ「工芸・Kogeiの創造―人間国宝展―」を観に行って、特別出品の志村ふくみさんの紬織の着物を見てきた。 少し前に、NHKの放送100年記念番組の一つ、『小さな旅』の回顧「つないでつむぐ」を見た。 その最初に、長野県千曲市森地区の杏(あんず)の里で、杏の木から草木染めをしている父と娘をやっていた。 昔、番組に登場した父親は、私と同じ歳になっていて、まだ杏の染物をつくっており、娘さんがそれを引き継いでいるのだった。 森地区の杏の里の見事なのは、その花盛りに毎年、父が油絵を描きに通っていたので知っていた。
3月25日の朝日新聞「天声人語」は、「この季節になると、中学の教科書で読んだ逸話を思い出す。春を告げる桜は、花だけでなく幹の中までピンクに染まっている。そんな話だった。あれは誰が書いたのだろう。40年ぶりに調べ、詩人の大岡信さんの文章にたどりついた」と書き出した。
「京都を訪ねた大岡さんは、上気したような美しい色の着物を目にする。桜で染めたものだと染織家の志村ふくみさんに教えられ、可憐な花びらを煮詰めたのだろうと思い込む。実際は、ごつごつした樹皮から取り出した色だった。そして開花の直前でないと、この色は出せないと聞く。」
「大岡さんは不思議な感じに襲われた。桜が「木全体で懸命になって最上のピンクの色になろうとしている姿が、私の脳裡にゆらめいたからである」(「言葉の力」)。」
森地区の杏の木を割って、染織をしている人も、志村ふくみさんとまったく同じことを言っていた。
「龍馬を斬った男」今井信郎のこと ― 2025/04/14 07:00
大河ドラマ『龍馬伝』が放送された2010年8月22日、坂本龍馬とキリスト教として、龍馬とクリスチャン二人の話(8月20日と21日)に次いで、「今井信郎のこと」を書いていた。
今井信郎のこと<小人閑居日記 2010.8.22.>
磯田道史さんが「龍馬を斬った男」と書いた今井信郎(のぶお)のことを調べる。 司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』を読んだ頃に買ったのだろう、平尾道雄著『龍馬のすべて』(久保書店・1966年)という本が書棚にあった。
坂本龍馬が京都の近江屋で暗殺されたのは、慶應3(1867)年11月15日の夜。 暗殺犯は特定されていないが、定説では徳川幕府側の京都見廻組の七人ということになっている。 その七人の中に、今井信郎がいた。 戊辰戦争では、榎本武揚に従い北海道箱館で最後の抵抗を試みたが、降伏している。 その時、刑部省が取り調べた口供書「箱館降伏人 元京都見廻組今井信郎口上 午三十歳」によると、当夜近江屋を襲ったのは見廻組の与頭(よがしら)佐々木唯(只)三郎(同じ慶應3年4月江戸で庄内の清河八郎を斬った)と配下の渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、今井信郎、桜井大三郎の七人、佐々木は二階の上り口でがんばり、二階に踏み込んで龍馬と中岡慎太郎を斬ったのは渡辺、高橋、桂の三人で、肝心の今井を含む三人は家の周辺を警戒していたという。
当初、龍馬暗殺は新撰組の仕業だと言われていた。 近藤勇が捕えられて尋問を受けた時、新撰組の原田佐之助がやったと認めたという。 上の今井と同じ箱館降伏人のうちに新撰組の横倉甚五郎、相馬主殿(とのも)、大石鍬次郎らがいて、彼らの口供書に、近藤勇の陳述は合点がいかない、どうせ打首になるのだから弁解を避けたのだろうとし、かねがね近藤は見廻組今井信郎、高橋某だと言っていた、とある。 今井信郎の名だけが、はっきりと挙げられている。
今井信郎は徳川家の旗本の家に生れ、剣客榊原鍵吉門下で、小太刀の名手だった。 維新後は遠州初倉村にひっこみ、事件については一切語らず、熱心なクリスチャンとして晩年を送った。 今井信郎の孫から、そのいとこが聞いた話が、高知新聞に載ったことがある。 信郎の妻いわは同行して京都にいた。 ある晩おそく帰って、一室に閉じこもって出てこない。 ふすまをあけて見ると、右手の中指がザックリ削がれているのを、焼酎で洗っていた。 その時、坂本龍馬を殺しに行って、中岡慎太郎に斬られたと話したらしい、と。
坂本龍馬とキリスト教、その一<小人閑居日記 2010.8.20.>
『龍馬伝』15日放送の「亀山社中の大仕事」では、龍馬が芸者の元(蒼井優)と取引をした。 長崎奉行所のスパイ元が、隠れキリシタンと知り、薩長連合の工作を奉行所に伝えないように取引したのである。 「みんなが笑って暮らせる国」という点で、両者は一致した。 この話はフィクションであろうが、坂本龍馬の縁者からキリスト教に関係している人物が二人出ている。
ひとりは、山本(澤辺)琢磨(1825~1913)。 『龍馬伝』2月28日放送の「生命の値段」で、江戸で二度目の剣術修行中だった坂本龍馬が助けた、同じ土佐藩郷士、龍馬の従弟である(『龍馬伝』では、確か武市半平太の妻・冨のいとこという設定だった)。 拾った時計を売り払ったことで責任を問われ、切腹させられそうになったのを、龍馬が逃がした。 箱館へ逃れ、神宮社宮司の養子となって澤辺姓となる。 新島襄にロシア正教伝道のために来日していた宣教師ニコライの話を聞き、尊皇攘夷の立場から殺害しようとして近づくが、逆に神父の崇高な教えに感銘を受けて、自ら刀を捨てて、信仰を受け入れ、1868(慶應4)年受洗する。 ロシア正教会の日本人最初の信者で、1875(明治8)年ニコライの創設した日本ハリストス正教会の最初の司祭となる。 聖名パウエル。 各地(主に東北)での布教活動に貢献し、ニコライ堂の建立にもかかわった。
田沼意次の「牧之原市史料館」と、坂本竜馬暗殺犯人 ― 2025/04/13 07:47
毎月「等々力短信」に返信して下さる静岡の方から、3月の第1189号「蔦屋重三郎のサロン」に関連して長文のお手紙を頂いた。 御前崎近くの牧之原市の相良城本丸跡に「牧之原市史料館」があって、大河ドラマ『べらぼう』に関連して「蔦屋重三郎と田沼意次」を特集しているので、近く行ってみようと思っている。 そこで一つ、学芸員に聞きたいことがある、という。
田沼意次は、徳川家重の小姓組番頭・御側から出世して一万石の大名となり、つぎの徳川家治の信任も厚く側用人となり、遠江国相良(さがら)に築城して二万石の藩主となった。 老中、五万七千石にまで進んだが、その経済政策が賄賂政治だという批判があり、嫡男意知(おきとも)が江戸城で暗殺される事件があって権勢が衰え、家治が急病死すると、失脚した。 嫡孫意明(おきあき)が家督を継いだが、一万石に減封され、陸奥国下村に転封となった。
田沼の賄賂政治と悪くいわれる一方で、意次は、遠江国相良の国元では、町方と村方の統治を明確化し、城下町の整備、東海道藤枝宿から相良までの分岐路の整備(田沼街道・相良街道)、相良港の整備を行い、殖産興業にも力を入れた。 また、郡上一揆の調査と裁定を行なった経歴から、年貢増徴政策だけでは経済が行き詰ることを知っていて、家訓で年貢増徴を戒めたので、領内の年貢が軽いことを百姓が喜んでいたという逸話が残っている。
静岡の読者が、学芸員に尋ねたいのは、その田沼意次でなく、坂本竜馬を殺した犯人とされる今井信郎の件だという。 犯人には諸説あるが、一応京都見廻り組の今井信郎が自供している。 法政大学の田中優子さんも、今井信郎でいいと思います、と話していたという。 今井信郎は、戊辰戦争で生き残り、牧之原茶園の開拓をして、大井川の近く現在の島田市に住んでおり、亡くなったと、本で読んだことがあったので、それを学芸員に確かめたいのだそうだ。
私も、坂本竜馬には興味があったので、これまでにも今井信郎について書いたことがあった。 それは、また明日。
平賀源内『根南志具佐』と瀬川菊之丞 ― 2025/03/27 07:05
源内は戯作でも1763(宝暦13)年、天竺浪人のペンネームで『根南志具佐(ねなしぐさ)』というベストセラーを出している。 とある僧侶が、美貌の女形二代目瀬川菊之丞に惚れて、貢ぐために悪事を働いたため地獄の閻魔大王の所に連れて来られる。 閻魔大王は、男色を汚らわしいと非難するのだが、瀬川菊之丞の絵を見て、一目惚れしてしまい、竜宮城の龍王に菊之丞をさらって来るよう命じる。
その役を引き受けた河童が、同じ女形の荻野八重桐とともに舟遊びをしている菊之丞のもとに、若い侍の姿で現れる。 菊之丞を川の中に引き込んで、さらっていく手筈だった。 だが河童も菊之丞に一目惚れして、菊之丞もこの若侍に惹かれて、一夜を共にする。 河童が洗いざらい打ち明けると、心も美しい菊之丞は、自分を閻魔大王の所に連れて行け、と言って身を投げようとする。 河童は必死に止め、二人がすったもんだしているのを聞きつけ、荻野八重桐が現れ、二人の真摯な思いに感じて、自分を閻魔大王の所に連れて行け、と言って身を投げる。 河童は消え、一人残された菊之丞は、飛び込んで八重桐を探そうとするが、「危ない」と止められ、呆然として水面を眺めていた。
この物語は1763(宝暦13)年、荻野八重桐が隅田川で川遊びの最中に、誤って川に落ち、溺死した事件をベースにしている。
『べらぼう』、「瀬川」と平賀源内<小人閑居日記 2025.3.17.>に書いたように、大河ドラマ『べらぼう』で、蔦重の幼馴染の花魁花の井(小芝風花)は、源内の好みを知っていて、男装で現れ「あっちでよければ、瀬川とお呼びくだせえまし」と、源内を喜ばせる。 源内は、花の井の「瀬川」に「ひとさし舞っちゃあくれねえかい」と。 翌朝、花の井は、平賀源内が福内鬼外(ふくうちきがい)の名で書いてくれた『吉原細見』の「序文」を蔦重に渡す。 版元・鱗形屋孫兵衛の「改め」(調査・情報収集・編集)となって、蔦重が仕事をした、この『細見嗚呼御江戸』は、よく売れたのだった。
花の井は、『根南志具佐』を読んでいたわけだ。 鱗形屋の『細見嗚呼御江戸』は、1774(安永3)年の刊行だから、『根南志具佐』がベストセラーになってから11年後のことになる。 杉田玄白、前野良沢、中川淳庵らの『解体新書』の出版も、この年、1774(安永3)年の刊行。
蔦屋重三郎と「瀬川」、吉原細見『籬の花』<小人閑居日記 2025.3.18.>に書いたように、松葉屋の花の井は、松葉屋伝説の名跡「瀬川」の五代目を、蔦重のために襲名する決心をする。 蔦重の新しい「吉原細見」『籬の花』には、「瀬川」の名が掲載され、伝説の名跡襲名の話題は『吉原細見』の売上を伸ばすことになった。 吉原細見『籬の花』の出版は、1775(安永4)年7月だった。
「非常ノ人」マルチクリエーター平賀源内 ― 2025/03/26 07:03
『英雄たちの選択』で、「江戸を駆けたマルチクリエーター平賀源内」を見た。 磯田道史さんは、平賀源内のような人物にある、好奇心に満ちたお江戸の知性が、日本再生のヒントになる、と言った。 杉浦友紀アナから、浅田春奈アナに代わっていた。
平賀源内(1728(享保13)年~1779(安永8)年)は、現在の香川県さぬき市志度に高松藩の小吏(足軽)の子に生まれ、早くから植物や動物に興味を持ち、本草学、博物学を学んだ。 殿様の松平頼恭(よりたか)は、いわゆる博物大名で、堀に海水を入れて海の魚を飼うなどし、『衆鱗図』という精密な魚類図鑑や植物図鑑をつくっていたので、身分階級を越えて重用される。 1752(宝暦2)年25歳で長崎に遊学2年、世界と出合う。 1754(宝暦4)年、妹の子に平賀家の家督を譲り、藩務退役を願い出、浪人となる。 「湯上りや世界の夏の先走り」の句に、石上敏さん(大阪商大教授・国文学)は自信と高揚感が出ている、と。 1756(宝暦6)年、29歳で江戸へ。
本草家田村元雄に入門、「薬品会(え)」で門下や同学の人々と交流した。 1759(宝暦9)年、自ら「薬品会」を主催して、紅毛産八種を含む五十種を出品披露し、新進気鋭の本草学者として注目される。 藩主松平頼恭は、源内を四倍の給料で高松に呼び戻し、薬草園の仕事や頼恭の調査同行などで、源内は忙殺される。 クリエーターの小山薫堂さんは、仕事をするとき自分は「新しいか、自分にとって楽しいか、誰かを幸せにするか」を念頭に置いているが、源内には「世の中の役に立つか」という意識があったのだろうと語った。 石上敏さんは、本草学と文学がつながっている、と。 今橋理子さん(学習院女子大学教授・美術史、秋田蘭画研究)は、殿様博物学恐るべし、と。 高松藩は、ため池で水分コントロールした商品型農業を行い、物産が盛んだった。 多忙な源内は、自分の研究ができず、1年半で辞職願を出し、7か月かかったが、「仕官御構」(他の藩には仕官しない)という条件で、1761(宝暦11)年、34歳で再び浪人となり、江戸へ。
大判50×33センチの引札で宣伝し、参加者の身分を取り払った全国規模の博覧会「東都薬品会」を開く。 全国の埋もれた産物を発見するため、25か所に「諸国物産取次所」を設け、江戸の受取所宛に送料着払いで送らせた。 1762(宝暦12)年4月10日、湯島で開催し、トリカブト、ジャスミン、南蛮のヤモリ、サトウキビなど、珍しい物が集まった。 なぜか(会場費の都合か)一日開催だったが、全六巻の『物類品隲(しつ)』という図録を刊行、360品が図解され、サトウキビから砂糖の精製法なども、実用できるよう説明している、この出版のほうが目的だったかもしれない。 源内は「この指止まれが上手い」、「同志諸君の所蔵品を送ってくれ」と共感を呼び、各地近隣の取次所、着払いシステムなど、アイデアに富んでいる。
源内は、戯作でも1763(宝暦13)年、天竺浪人のペンネームで『根南志具佐(ねなしぐさ)』というベストセラーを出している(その物語は明日、申し上げることにする)。 菅原櫛の発明、有名なエレキテルの実験、『放屁論』、今橋理子さんは源内の《西洋婦人図》は歌麿の大首絵につながったかもしれない、などなど、平賀源内は多彩な活躍をしたマルチクリエーターだった。
しかし、こうした活動で借金がかさみ、それを挽回すべく始めた秩父中津川の鉱山開発に8年を掛け、失敗、現在の2億円の借金を作り、山師と言われた。 精神的に不安定になり、1779(安永8)年11月殺傷事件を起こし、投獄され、12月獄中で亡くなった。 杉田玄白は、親友源内獄死の報に接すると、歎き悲しみ、私財を投じて墓碑を建てようとし、「処士鳩渓墓碑銘」を撰んだ。 その結びに(原漢文)「噫(ああ) 非常ノ人 非常ノ事ヲ好ク 行ヒ是レ非常 何ゾ非常ニ死スルヤ 鷧斎(いさい) 杉田翼撰」と記した。
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