「神在月」の出雲(その3)(その4)2025/11/06 07:07

     「神在月」の出雲(その3)<小人閑居日記 2016.11.14.>

 私は『夏潮』に連載させてもらっていた『季題ばなし』の第16回に「神無月」を取り上げた(平成23(2011)年11月号)。 そこには、こんなことを書いていた。 出雲に来た神々が、「十月晦日、または十一月朔日に出雲から帰られるのを「神還(カミカヘリ)」、お迎えすることを「神迎(カミムカヘ)」という。本来、里に来た田の神が、収穫が終わり山に帰るのを送った祭で、この神去来の信仰が出雲信仰と習合したものといわれている。」

 「大国主命は国作りの神、開拓、五穀の農耕守護神であったが、中世には大黒天信仰と習合、近世以降一般庶民の間では福の神、男女の良縁を取り持つ縁結びの神、平和の神、農耕の神として、全国的に親しまれている。 神話では、高天原を追われた素戔鳴尊(スサノオノミコト)は出雲に降り、八岐大蛇 (ヤマタノオロチ)を退治してこの地方を治め、その裔大国主命はさらに国土を経営したが、天孫降臨の前、その国土を譲れという天照大神の命に応じて政権を離れて隠退したという。かつて弥生時代を、九州を中心とする文化圏と、畿内を中心とする二つの文化圏の対立の時代と見る見方があった。第二次大戦後、瀬戸内海地方など各地で発掘が進み、その主張は難しくなる。一九八四(昭和五十九)年夏、島根県簸川郡斐川町神庭の荒神谷遺跡で弥生時代の銅剣三百五十八本(過去の出土総数を大量に上回る)のほか、銅鐸・銅鉾など多数の青銅器が発掘され、銅鐸が畿内、銅鐸・銅鉾が九州地方に分布するという従来の学説を覆した。そして弥生時代後半に島根県の斐川流域を中心に一定期間続いたとされる出雲王朝の存在に、再び光が当たることとなった。」

 『夏潮』では、私の『季題ばなし』の後、会員で考古学がご専門と聞く石神主水さんが『時を掘る』を連載されている。 その第4回、平成24(2011)年11月号が「神在月」だった。 そこで石神さんは、『日本書紀』が天皇家と国家の歴史を対外的に示す役割を果たしたのに対して、『古事記』には神話の世界をありのまま伝えようという意思が見て取れ、「出雲神話」の存在は『古事記』特有のものだとする。 その記述の多くが『日本書紀』に全く現れて来ない点から、ヤマト王権とは異なる、「滅ぼされた」イズモ「王権」の存在が見え隠れしてくる、というのだ。 日本全国の神社に坐す八百万の神々が「神無月」に、なぜ出雲に集い出雲は「神在月」となるのか。 「日本書紀では、オホクニヌシが作り上げたアシハラノナカツクニ(葦原中国・日本)を、天降りしたニニギ(瓊瓊杵尊)に戦わずして「国譲り」することになります。その折、現世のまつりごと「顕露(あらわに)の事」はニニギが行い、神の世界のこと「神事(かみごと)」はオホクニヌシが行うこととされたため、神々は出雲に集うのです。」という。 上記の斐川町神庭(かんば)荒神谷遺跡の大量の銅剣や銅鐸のほか、一九九六年には雲南市の加茂岩倉遺跡から三十九もの銅鐸が出土した。 また出雲の旧家木幡家所有の銅鐸と佐賀県吉野ヶ里遺跡出土の銅鐸が、同じ鋳型で作成された兄弟銅鐸であることも明らかになった。 石神さんは、こうした考古学的発見からは、弥生時代の九州、山陰地方とのつながりや、日本海域を中軸とした出雲の存在感がいかに高いものであったかを思い知らされるとし、記紀にある「国譲り」の有無は謎のままだが、出雲の力がヤマト王権を脅かすものであったことは確かだろう、とするのだ。

     「神在月」の出雲(その4)<小人閑居日記 2016.11.15.>

 2015年5月放送の『ブラタモリ』「出雲」「出雲はなぜ日本有数の観光地になったか?」では、意外な事実を知った。 出雲大社は、江戸時代まで杵築大社(きづきのおおやしろ)という名で呼ばれ、けして全国的に知られるような神社でなかったというのだ。 今では年間800万人が訪れるという出雲が、にぎやかになったのは250年前頃の江戸時代後半からだそうだ。 60年に一度、遷宮が行われ、修繕されるが、今の本殿は延享元(1744)年の遷宮で建てられた。

 出雲の町の屋根瓦には、大国様の像が見られる。 玉を持つのは大国様、打出の小槌を持ち米俵に立つのは大黒様だという。 国と黒、大国様と大黒様の違いを、知らなかった。 農業神である主神の大国主命(大国様)と、仏教の大黒天(大黒様)とを習合して、一般に農作・福徳・縁結びの神としての出雲大社の信仰を広めたのには、出雲御師(おし)の存在があった。

 蕎麦屋の青木屋に、御師の布教道具なるものがあった。 板木が、「大切」「大切」と書かれた段ボールのカートンに、三箱もあった。 タモリが、長年やっている職人になりきり、湿し十年とか言いながら、その板木で摺ってみる。 「蕎麦預かり」券、蕎麦のクーポン券なのだった。 裏には、その年の大小暦、申(さる)年で猿が大の月と小の月を書いた笹竹をかついでいる絵がある。 参拝客は、それを持って蕎麦を食べに来たのだろう。

 商人街の立派な屋敷の藤間(とうま)家は、廻船問屋だったそうで、18代目の藤間亨さんが、古文書を見せてくれる。 この史料で、「杵築の富籤(くじ)」の実態がわかったという。 売上の三割を大社に納める。 松江藩は財政が厳しく、富籤を許したのだという。 3月と8月に、祭礼が7日間あり、8日目に富籤が行われ、9日目から換金が行われる。 その間、お祭り騒ぎが続くことになる。 出雲や松江藩の人は富籤は買えず、外から来た参拝客だけが買える。 一回の富籤で、今の金額で22億円を売り上げたとか。 参拝客は、ずっと出雲の御師の家(宿坊)に逗留することになるから、お金を落す。 一大観光産業のシステムである。

 明治45(1912)年に鉄道、大社線が通じ、大正13(1924)年に大社駅が出来る。 商店街が二か所に分かれてあったので、出雲大社から2・5キロ離れた所に駅がつくられ、メインストリートが整備された。 この駅舎は重要文化財、(駅舎の重要文化財は、他に二つ、赤煉瓦の東京駅と、門司港駅)。 昭和40(1965)年代には100万人が利用したが、平成2(1990)年に大社線は廃止された。

 10年前には、神門通りはシャッター通りのようになり、3分の2に落ち込んだ。 8年前の平成20(2008)年、「平成の大遷宮」に合わせ、「縁結び」を前面に出して、スイーツの店を展開、若い女性を呼び込んだのが成功し、今や年間800万人の人が出雲を訪れている。

 出雲では、遷宮のたびに、遷宮をきっかけに、町がもう一度、よみがえっているのだ。 それは伊勢神宮でも同じで、近年のおかげ横丁の例を見ればわかる。

ハーン「杵築(きづき)」出雲大社へ2025/10/30 07:03

 小泉八雲著、平井呈一訳『日本瞥見記』(上)第八章は「杵築(きづき)」である。 福沢に親しんだものは、大分県の杵築(きつき)を思いうかべるが、杵築(きづき)は島根県出雲市大社町の古地名で、出雲大社の所在地である。 「杵築(きづき)―日本最古の神社―」は、ラフカディオ・ハーンの出雲大社訪問記である。 ハーンは書く、「出雲は、わけても神々の国であり、いまでもイザナギ、イザナミの子孫が、深くその宗祖を尊崇している、この民族の揺籃の地であるわけだが、同時に、その出雲のなかでも、杵築はとくに神の都であって、そこにある古い神社こそは、この国の古代信仰である、神道という偉大な宗教が発祥した、本家本元なのである。」

 「杵築を訪れることは、わたくしが神道に関する杵築の伝説を聞いて以来、わたくしの最も熱烈な願いであった。そして、わたくしのこの願いは、これまで杵築を訪れた西欧人のはなはだ稀であること、西欧人にして、大社の昇殿をゆるされたものはいまだかつてないということを知るに及んで、いやが上にも強くなった。じっさい、西欧人のなかには、大社の境内にさえも、近寄ることを許されなかったものがあったくらいなのである。そういう連中に比べれば、わたくしの方がいくぶんか幸運に恵まれていると信じている。なぜというにわたくしは、わたくしの親友でかつ杵築の神社の宮司とは、個人的にごく昵懇な、西田千太郎から紹介状をもらってあるのだから。だから、かりに日本人自身のなかでも、ごく少数の者だけに限られている、昇殿という特権は許されないまでも、すくなくとも、そこの宮司――日の神の末裔である、千家尊紀氏に引見される光栄をもつことだけは確かだろうと、わたくしは確信している。」

 註に、「千家尊紀は、杵築の第八十一代の国造(くにのみやつこ)にあたる人である。その家系は、六十五代の国造と、十五代の地祇をさかのぼって、天照大神とその弟素戔嗚尊に達しているのである。」とある。

 西田千太郎とは、どういう人か、説明がない。 たまたま、平川祐弘著『小泉八雲 西洋脱出の夢』第六章「草ひばりの歌」に、西田千太郎松江尋常中学校教頭(当時、27歳)の、例の人柱の噂のあった大橋開通式当日、明治24年4月3日の日記が引用してあった。

 「三日、快晴、大橋開通式。松江市ノ賑ハ予ノ未ダ嘗テ見ザル処、渡リ初メニハ羽山某老夫婦及三築老夫婦、煙火奏楽ノ間ニ知事ニ携ヘラレテ之ヲナセリ。予ハヘルン氏階上ヨリ全式ヲ望見セリ。式了リテ後ヘルン氏及中山氏ト共ニ市街ヲ散歩ス。橋上ハ勿論市街殆ンド通行ニ悩ム程ノ多人数群集ス。ヘルン氏方ニ午飯ヲ喫シ、三人相共ニ灘町ニ本日ヨリ開場セル谷ノ音連ノ相撲ヲ観ル。」

 『ばけばけ』で吉沢亮が演じている錦織友一は、どうやら西田千太郎がモデルのようだ。 20日に書いた佐野史郎の演じる、ラフカディオ・ハーンを松江に招聘した当時の島根県知事・籠手田安定(こてだやすさだ)がモデルの知事の役名は、江藤安宗だった。

明治17(1884)年、松江から東京までの旅路2025/10/27 07:03

 朝ドラ『ばけばけ』の前週は、疲弊した婿の銀二郎が出奔、祖父勘右衛門が刀や鎧を売った金で、トキが東京へ連れ戻しに行く話だった。 松江から東京まで、7日間の旅とか言っていた。

 後に総理大臣になる若槻礼次郎が、明治17(1884)年、司法省法律学校を受験するため、松江から初めて上京した時の旅路が、平川祐弘著『小泉八雲 西洋脱出の夢』第六章「草ひばりの歌」に『古風庵回顧録』から、引用してあった。 その6年後、ハーンも似た旅路を逆に北に向けて山越えをしたからだ。 その頃鉄道は、山陰道などには全然なかった。 松江から、まず鳥取県の米子に出て、山中十七里という中国山脈を越えて岡山県に出て川船で岡山に降り、汽船で神戸へ、神戸で汽船に乗り換えて横浜に行き、横浜から汽車で東京に出るというのが順路だった。

 松江から八里の米子までは実父が送ってくれたが、そこからは唯一人山越えをした。 この山越えは、非常に淋しい所で、昔は藩公が江戸へ出るのに、ここを通り越すと、飛脚を国元へやって「御無事に山中をお通りになりました」と報告をさせたという程で、山賊なども出没したという。 だからここを越すには、必ず二三人誘い合って行くのが普通だったが、淋しさをこらえて、ただ一人とぼとぼと歩いた。 人にも行き逢わず、人家もほとんどないので、途を聞くことが出来ず、ただ電柱を目標にした。 この山の中で、二晩宿屋に泊って、三日目に美作に降りた。 落合の宿屋に泊って、岡山行の川船に乗った。

 6年後の明治23年、ハーンが松江中学校の英語教師として赴任する頃には、鉄道網は姫路まで伸びてはいたが、山陽道から北へ歩を転じ、一歩山の中に入れば、さしたる変化はなかった。 ハーンが強力(ごうりき)の車夫をとっかえひっかえ、俥で中国山脈を北に抜けた四日間の旅は、通訳を一人連れていたとはいえ、やはり物淋しいものであったにちがいない、という。

君のとなり歩くから 今夜も散歩しましょうか2025/10/26 07:33

 10日に出した、「小泉八雲、鳩の鳴き声の版画」、Tētē Popoō, Kaka Popoō, Tētē Popoō, Kaka Popoō, Tētē… を、どこから引用したのかが、判明した。 本棚に、平川祐(示右)弘著『小泉八雲 西洋脱出の夢』(新潮社・1981(昭和56)年)を見つけたからだ。 第一章「小泉八雲の心の眼」にあった。

「ハーンは松江に来てしみじみと幸福を味わった。『日本の庭で』ではハーンはあるいは強く、あるいは嫋々(じょうじょう)と鳴く山鳩の声を次のような大小のローマ字に綴った。その声に心動かされることのない人はこの幸せな大和島根に住む資格の薄い人だ、とさえ言いきった。」

Tētē
Popoō,
Kaka
Popoō,
Tētē
Popoō,
Kaka
Popoō,
Tētē…

No European dove has such a cry. He who can hear, for the first time, the voice of the yamabato without feeling a new sensation at his heart little deserves to dwell in this happy world.

 朝ドラ『あんぱん』主題歌の歌詞が分かった<小人閑居日記 2025.8.13.>に、「朝ドラ『あんぱん』のタイトルバックに流れる曲の、歌詞が聞き取れない。 特にサビとなる、「キャアキャア」と畳みかける部分などは、何を言っているのか、さっぱりわからなかった。」と書いたが、朝ドラ『ばけばけ』のタイトルで流れる主題歌「笑ったり転んだり」は、わかりやすくメロディも単純で、つい口ずさみたくなる。 佐藤良成の作詞・作曲・編曲、歌っているのはハンバート ハンバート、佐藤良成と佐野遊穂のデュオだそうだ。

日に日に世界が悪くなる
 気のせいかそうじゃない
そんなじゃダメだと焦ったり
 生活しなきゃと坐ったり
夕日がとても綺麗だね

野垂れ死ぬかもしれないね
 何があるのかどこに行くのか
わからぬまま家を出て
 帰る場所などとうに忘れた
君とふたり歩くだけ

黄昏の街西向きの部屋
 壊さぬよう戸を閉めて
落ち込まないで諦めないで
 君のとなり歩くから
今夜も散歩しましょうか

ゴッホの手紙<等々力短信 第1196号 2025(令和7).10.25.>2025/10/25 07:05

 そもそも「等々力短信」の前身「広尾短信」を始めたのは、福沢諭吉や夏目漱石の手紙の面白さを知って、電話で何事もすます世の中に、なんとか手紙の楽しさを復活させ、広められないかと、思ったからだった。 当時なぜ『ゴッホの手紙』という本があるのか、深く考えたことがなかった。 明治末期の雑誌『白樺』に児島喜久雄が連載し、大正に入って木村荘八が単行本を、1950(昭和25)年代に式場隆三郎や小林秀雄が出している。 7月27日の『日曜美術館』「星になった兄へ 家族がつないだゴッホの夢」で、ゴッホを有名にするについて、手紙と家族の役割が大きかったことを知った。

 フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年にオランダで牧師の父の長男として生まれた。 頑固で癇癪持ち、些細なことに激昂するところがあったが、16歳で伯父の画廊グーピル商会のハーグ支店に勤める。 弟のテオも、後に同商会のブリュッセル支店に勤め、二人は手紙のやりとりを始める。 ゴッホにとってテオは、唯一心の通う存在だった。 文通は当然絵画に及び、テオはマネの版画などをコレクションしていた。 ゴッホは、23歳で画廊を解雇され、聖職者を目指すが、教会に受け入れられず、父とも諍いを起こす。 兄の才能を信じるテオが、画家になるように勧め、援助する。 パリ支店にいたテオが送る版画の影響で、1885年初期の代表作《ジャガイモを食べる人々》が生まれる。 描いた作品を送ったので、その大部分はテオの手元に残った。 32歳でパリへ、2年間テオと同居、その間手紙はないが、テオの妹への手紙でゴッホの様子がわかる。 二人は議論を深め、印象派や浮世絵(500点を蒐集)にも触れ、ゴッホの絵は変化し、筆遣いと色彩に目覚める。 1888年、南仏アルルへ、その芸術は花開く。

 テオはヨー・ボンゲルと結婚し、1890年に生まれた長男にフィンセントと名付け、ゴッホは祝いに《アーモンドの木の枝》を贈る。 だが、その2か月後、ゴッホは自死、半年後に20代のテオも病気で亡くなる。 ヨーは、1歳に満たぬ息子を抱え、生前はほとんど売れなかったゴッホの作品を受け継ぎ、オランダに帰って、下宿屋を開業する。 

ハンス・ライテン著、川副智子訳『ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲル 画家ゴッホを世界に広めた女性』(NHK出版)の作曲家・望月京(みさと)さんの朝日新聞書評を読む。 ヨーは内向的で自信のなかった読書好きの少女だったが、彼女にとって「この世で最も神聖なもの」だという画家の手紙の編纂を早くから計画し、英訳も自ら担当。 適切な協力者の人脈を築き、展覧会の開催、絵の貸し出しと売却、テオの生前の見解や手紙の内容から作品に名をつけ目録を作成、見事な宣伝や出版戦略、ゴッホ兄弟や息子への愛と、たゆまぬ努力で、義兄の作品を世界に広める偉業を成し遂げた。