カタブツ河口慧海のチベット潜入2005/09/24 07:52

 「奇想家列伝」の第六回は「カタブツだからできたこと―河口慧海(えかい 1866-1945)」、20世紀初め、厳重な鎖国をしていたチベットに単独潜入した日 本の仏僧(黄檗宗)、『西蔵(チベット)旅行記』(1904年)を著した。 タイプは玄 奘三蔵に近い“超”真面目な人物で、本当の仏教に触れたいという情熱に駆ら れた。 お経の原典が欲しいのだが、当時インドにはもう原典はなく、チベッ トにはそれに近い原典の直訳があるのではないか、と考える。 壮行会で何か 欲しいものがあるかと訊かれ、魚採り名人に殺生をやめてくれといい、網を目 の前で焼かせた。(このカタブツぶりに、夢枕さんは「友達減りますよ」) 

 イギリスもチベットに野心を持っていた時代で、チベットは外国人の入国を 厳重に拒んでいた。 河口慧海は、中国人の僧に化け、インドでチャンドラ・ ダースの所に身を寄せ、チベット語とその事情を学んだ。 チャンドラ・ダー スはバンディットと呼ばれていたイギリスのスパイで、バンディット達は同じ 歩幅で歩く訓練をし、所々でお湯が何度で沸くか調べ、色の付けた丸太を川の 上流から流したりして、距離や高度、チベットの地図を調査していた。

 河口慧海はネパールからヒマラヤを越える山岳ルートからチベットに密入国 した。 山賊が出たが、河口の何もせずお経を唱えている真面目さをもてあま した (山賊も仏教徒だった) 。 いったんカイラス山へ行き、西側からラサに 入った。 この頃、崑崙山脈の北では、イギリスのスタインがタクラマカン砂 漠を探検し、ヘディンが幻の湖ロプノールを発見するなどしていたが、二人と もチベットに入ることには失敗した。 河口はダライ・ラマ13世のいたラサ で、中国人の修行僧としてセラ寺に入る。 西洋医学や漢方の知識があったの で、セライ・アムチー(医者)と呼ばれていた。 そして、目的の大蔵(だいぞう) 経典を大量に持ち帰った。 志の高さ、自分を律する意志の強さを持った「明 治の三蔵法師」だ。

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