高崎の殿様たち ― 2006/02/23 08:22
堤克政さんの「ちょんまげ時代の高崎」から、学んだことを記す。 江戸時 代、江戸周辺の関八州(関東地方)は、江戸を守る重要な土地なので、ほとんど が徳川譜代の領地であり、その中でも高崎は、川越、佐倉、古河などとともに 老中格の大名が配される要衝だった。 徳川家康は江戸に入った時、四天王の 一人井伊直政を箕輪(現箕郷町)十二万石に配した。 直政は中山道と三国街道 が交わる和田の地に本拠を移し、高崎と名付けて城づくり、町づくりを開始し た。 この時、他の四天王、榊原康政は館林十万石、本多忠勝は大多喜十万石、 関ヶ原で死んだ酒井忠次を継いだ家次は(下総国臼井)三万(七千)石だった。
井伊直政は、わずか二年足らずで、関ヶ原後の豊臣方に備えるため、石田三 成の居城だった佐和山(彦根)十八万石に転封される。 井伊に匹敵する殿様が 見つからなかったのか、高崎はその後四年間殿様のいない城番(留守番)時代が 続く。 江戸開府となり、ようやく酒井家次が五万石で入封したが、十二年後 に新潟高田に栄転した。(酒井氏はその後、山形庄内十二万石、今の鶴岡市に転 ずる。鶴岡の殿様が高崎にいたとは、知らなかった。前橋では分家の前橋酒井 氏が八代続き、大老や老中もやり十五万石となり、姫路に転出した。)
高崎では酒井氏のあと入封した戸田氏は四ヶ月、松平氏は二年弱と短く、関 ヶ原の戦いから二十年経って、二代将軍の老中を務めた安藤重信が五万六千石 で入り、三代にわたって高崎を治める。 安藤氏は、滞っていた城郭を整備し、 領内の総検地を行い、伝馬町や絹市場を開設して、城下町の基礎を築いた。 安 藤氏の後、栃木壬生から大河内輝貞が五万二千石で入り、明治まで十代、高崎 の殿様は大河内家で落ち着いた。
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