大河内家と、その家老・堤家2006/02/25 07:09

 三代将軍家光の老中として島原の乱を収拾するなど功績を上げた“知恵伊豆” といわれた松平伊豆守信綱という人がいた。 その松平信綱の五男信興が分家 独立して大河内右京大夫(たいふ)家を興し、土浦三万二千石の大名になった。  信興の甥で継嗣となった輝貞が、土浦から栃木壬生を経て、高崎五万二千石に 栄進する。 この大河内家が、明治まで十代、百六十八年間、高崎の殿様を務 めることになる。

 堤克政さんの堤家は、初代の幸政という人が、信興が土浦城主として独立し 大河内家を興した時、付け家老として派遣され、そのまま大河内家の家臣にな った。 そして二代目堤幸継が、二代目殿様大河内輝貞に従って、壬生から高 崎にやって来た(堤さんの「ちょんまげ時代の高崎」では、信興公、輝貞公とな っているが、私は堤家のご先祖も含め敬称を略す)。

 大河内輝貞は、二十三歳の時、五代将軍徳川綱吉の中奥小姓になる。 学問 好きの輝貞は、同好の綱吉に気に入られ、学問の弟子となり、将軍御側用人の 実力者、柳沢吉保の娘との縁組を命ぜられる。 輝貞が、将軍の御用を老中に 取り次ぐ御用人として活躍したのは、博学多才、忠誠一途、温厚明敏という資 質があったからだと確信する、と堤さんは書いている。

 五代将軍綱吉が没すると、大河内輝貞は寵遇の妬みか、一時新潟・村上に転 封させられる。 綱吉を敬う吉宗が八代将軍に就くと、再び高崎に戻るのだが、 その間高崎城主となったのは、有名な間部詮房(まなべあきふさ)だった。

たった5年目、明治5年<等々力短信 第960号 2006.2.25.>2006/02/25 07:10

明治5年は、一年の日数が327日しかない。 日本で暦日が記録に残るよう になってからの、最短の年だそうだ。 旧暦(太陰暦)明治5年11月9日に改暦 の詔書が発せられ、太陽暦を採用し、明治5年12月3日を、明治6(1873)年1 月1日とすると、定めたからだった。 福沢諭吉は考えた。 太陽暦の採用は 大賛成だけれど、一国の暦法を変更するというのは一大事件で、これを断行す るには国民一般にその理由を丁寧に繰り返し説明し、新旧両暦の相違点や得失 を示して、心の底から合点させることが大切である。 それが政府の布告文を 見ると、簡単至極で、その詳細を知ることができない。 そこで民間の福沢が これを説明して、新政府の盛事を助けようと思いつき、風邪で寝込んでいた日 の朝から午後にかけて6時間ほどで『改暦弁』を脱稿した。 小冊子にして刊 行すると、売れに売れ、一冊何銭という定価なのに発売2、3か月で純益が7 百円余、その後も売れて、6時間の報酬に、利益の総額は千円にも1千5百円 にもなったという。 明治5年に払い下げの決まった三田の土地1万4千坪の 代価は、5百何十円だった。

 明治5年は、明治維新の気分に満ちていた。 5月7日(旧暦、以下も同じ)、 品川・横浜間の鉄道開通、所要時間35分、車は上・中・下等の3等級あり、 料金はそれぞれ1円50銭・1円・50銭だった。 7月1日、全国に郵便施行、 マリア・ルーズ号事件が起きた。 ペルー船が澳門で買った清国人奴隷231人 を積んで、横浜に寄航中、その一人が逃亡、英国軍艦に助けられて発覚した。  副島種臣外務卿の意を受けた神奈川権令大江卓は県庁に臨時法廷を開き「船長 は無罪、船の出港も許す、ただし奴隷231名は解放する」と判決した。 8月 1日、最初の近代的学校教育制度の基本を定めた「学制」が発布され、小学校 から大学校まで一貫した集権的学校制度を確立することになった。 11月15 日、国立銀行条例制定。 前年の廃藩置県断行の流れを受けて、11月28日、 太政官から「全国徴兵の詔書」が出され、鎌倉時代以来の武士制度は終りを告 げた。

 福沢諭吉の『学問のすゝめ』初編は、この年2月に刊行された。 「天は人 の上に人を造らず人の下に人を造らず」で始まり、本来平等であるべき人に貴 賎貧富の別の生ずるのも、ひとえに人の学ぶと学ばざるとに由る、と説いたこ の本が、どれほど当時の人々に勇気と希望を与えたか。 大歓迎され、ベスト セラーとなったのは、冒頭の明治6年1月1日発兌、発売部数十数万という『改 暦弁』と同じである。