津軽家と歴代藩主の御廟など墓巡り2016/05/24 06:33

津軽家初代藩主為信の御廟内部、右は豊臣秀吉の木像

 弘前城の後、石場家住宅(国指定重要文化財)という現在は酒屋さんをやっ ている江戸中期の建築を見て、バスで岩木川を渡り革秀寺へ行く。 津軽家初 代藩主為信の菩提寺だ。 初めに墓地へ行き、17日に書いた「東奥義塾」の創 立者・菊池九郎の墓を詣でた。

杉落葉戦国駆けし殿御廟

 ご住職がわざわざ為信の御廟を開けて、見せて下さる。 雪囲いがしてある。 桃山風の霊廟建築としては県内最古の国指定重要文化財、近く修理改修の予定 という。 この旅行に来る前、偶然テレビで、この御廟の話をやっていた。 そ れで、為信の墓のとなりに、豊臣秀吉の木像があることは、知っていた。

 津軽氏は、陸奥国津軽地方の豪族で、初め大浦氏を称した。 戦国時代の為 信のとき、南部氏にそむいて独立、津軽地方を押領し、津軽氏を称して堀越に 住んだ。 豊臣秀吉の小田原攻めのとき小田原に参じ、本領を安堵された。 関 ヶ原の戦いには徳川方に属して4万7千石を領し、慶長15(1610)年弘前に 移った。 徳川時代、豊臣秀吉の木像は、密かにされてきたらしい。

 テレビ番組では、石田三成の子が弘前へ逃げ、為信にかくまわれたという。  三成の長男・重家は、京都で仏門に入り、寿聖院の住職となって、104歳の長 寿を全うした。 次男は、秀頼の小姓仲間である津軽信建の助けで弘前へ逃げ、 杉山の姓を名乗り、杉山源吾として深味村(現・板柳町…高見盛の出身地)に 隠棲した。 源吾の長男・吉成は、信建の弟・信枚(2代藩主)の娘を妻とし、 弘前藩の重臣になったという。 禅林街の寺、宗徳寺の源吾か(や?)吉成の 墓には、「豊臣○○」と刻まれているそうだ。

 革秀寺の後、バスで再び城下に戻って、茂森町の枡形を曲がると、両側にず らりと寺が並んでいる。 弘前城築城の際、同時に北西の守りとしてつくられ た寺町がこの禅林街だ。 一番奥の長勝寺は、津軽家の菩提寺である。 初代 (革秀寺)と4代信政(高照神社)を除く、歴代藩主の墓所のほか、初代の室・ 阿保良姫、2代信枚とその室・満天姫、3代信義、6代信著の5つの霊廟が建て られている。 本堂・三門はじめ6施設は、国指定重要文化財。 三門とは三 解脱門のことで、三解脱はガイドの会長さんの説明では、「怒らない、比べない、 求めない」とのことだった。

 この後、禅林街の入口、月峰院で佐藤弥六を始めとする一族のお墓をお参り して、ホテルに戻り、ディナーブッフェの夕食で二日目を打ち上げた。

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