「古今伝授」と関ヶ原の勝敗2021/02/03 06:55

 つづいて慶長5(1600)年9月15日、天下分け目の関ヶ原の戦いだ。 2か月前の7月18日、細川藤孝のいた丹後田辺城は5百人の兵力だったが、西軍の大軍に囲まれた。 今、熊本市の水前寺成趣園にある「古今伝授の間」は、当時京都御所にあって、藤孝は慶長5年3月、八条宮智仁親王に秘伝を受け継ぐ「古今伝授」を開始した。 8月2日には田辺城で辞世<いにしへも今もかハらぬ世中に心の種をのこすことの葉>を詠む。 関ヶ原前夜、「和歌の道」が藤孝を救った。 井上章一さんが「タヌキ親爺」だという藤孝は、レッスンを積み残したまま、田辺城に籠城した。 動いたのは後陽成天皇(正親町天皇の皇子誠仁(さねひと)親王の第一王子)、藤孝の死によって「古今伝授」が失われることを嘆き、西軍に講和を説く。 9月18日、藤孝は籠城を解いた。 その三日前、関ヶ原の戦いは終わっていた。 西軍の大軍を田辺城に足止めしていたことが、関ヶ原の勝敗に影響した。

 家康が天下人になっても、藤孝は江戸幕府の基礎づくりを伝授した。 豊臣家は公家、摂関家になっていた。 室町幕府の武家政治を知っているのは、藤孝だけで、「芸は身を助く」。 細川家は、記録、歴史を大切にした、「ペンは剣よりも強し」の家だと、永青文庫副館長で美術ライターの橋本麻里さん。

 だが、本能寺の変の直後、光秀が藤孝に宛てた一通目の手紙、おそらく甘い言葉が連ねてあったであろう手紙が、残っていない。 二通目の、藤孝が協力を断ったことに「腹が立った」という手紙は残した。

 磯田道史さんは、細川藤孝を「戦国のオアシス」、信長亡き後、言の葉を集めたことが彼の宇宙観、永遠のものを残した高尚な文化人、最後の中世武士、一番会ってみたい人だと結論した。