縄文と弥生が混在する時代もあった ― 2020/04/15 06:58
そこで、「英雄たちの選択」の、「追跡!土偶を愛した弥生人たち~縄文と弥 生をつなぐミステリー」だが、原始日本の、水田稲作と青銅器・鉄器を特徴と する弥生時代像が変わるかもしれないというのだ。 稲作の弥生文化が、たち まちの内に、縄文文化を駆逐してしまったのではない。 縄文の流れを汲む土 偶が、近畿地方で少なからず出土する。 縄文の祈りの道具・石棒も出土する。 そこから縄文系弥生人の存在が浮かび上がる。 弥生の村落の傍に、縄文の村 落が混在している例もある。
青森県八戸市の是川縄文館、国宝「合掌土偶」は正中線、胸の形から、祈り の女性像で、出産の姿勢(座産)、子孫繁栄がテーマだろうと考えられる。 近 畿の土偶に、東北の影響のある屈折像土偶がある。 両手を置いていた足が、 次第に省略される。 滋賀県赤野井遺跡の屈折像土偶は、座産のポーズ。 東 から西へのルートが確認できる。 安産の願いは、縄文でも、弥生でも引き継 がれた。
福岡空港近くの雀居(さざい)遺跡で出土した漆彩色の壺型土器が、青森県 つがる市亀ヶ岡遺跡の縄文晩期の出土の土器に似ている。 雀居遺跡出土の彩 文のある樹皮製漆塗容器が、東北地方の青森県八戸でも出土する。 仮説とし て、九州で始まったばかりの稲作の情報収集にやって来たのかもしれない。
松本武彦国立歴史民俗博物館教授は、遠距離の移動のネットワークがあった、 とする。 さまざまな選択、拒絶があって、弥生(稲作と鉄の時代)が東に伝 わるのに500年を要した。 西は弥生でも、東は縄文の時代があった。
「「縄文時代」はつくられた幻想に過ぎない」 ― 2020/04/14 07:03
12月4日に放送された「英雄たちの選択」選、「追跡!土偶を愛した弥生人 たち~縄文と弥生をつなぐミステリー」を見たメモが出て来た。 以前、「「縄 文時代」はつくられた幻想に過ぎない」というのを書いていたので、まずそれ を読んで頂く。
「「縄文時代」はつくられた幻想に過ぎない」<小人閑居日記 2016.10.14.>
「弥生式土器ゆかりの地」の碑や、「弥生二丁目遺跡」を見て来たので、ぜひ これを書いておきたい。 8月30日朝日新聞朝刊オピニオン&フォーラム「異 議あり」にあった、山田康弘さん(49)の「「縄文時代」はつくられた幻想に 過ぎない」という意見である。 山田康弘さんは、1967年生れの先史学者、国 立歴史民俗博物館教授、専門は「縄文時代」を中心とした先史墓制論・社会論、 考古学と社会の関わりを研究しているという。
『つくられた縄文時代』という著書もある、その主張はこうである。 「縄 文式文化」「弥生式文化」という言い方は、戦前からあった。 ただ、石器時代 の中に狩猟採集の文化と、米を栽培している文化があったということで、時代 のくくりは、弥生の一部を除いて石器時代だった。 戦後になって、アメリカ の教育使節団の勧告などで、これまでの神話にもとづく歴史教科書はダメだ、 新しい歴史観で教科書をつくれということになった。 当時最も科学的な歴史 観と考えられていた「発展段階説」に合わせて、狩猟採集段階の縄文式文化か ら農耕段階の弥生式文化へ発展したと書かれるようになった。 「縄文」「弥生」 の枠組みは、新しい日本の歴史をつくるために、ある意味で政治的な理由で導 入され、決められたのだ。
ただ、まだ「縄文時代」「弥生時代」ではなかった。 変化が起きたのは1950 年代後半だ。 1947(昭和22)年に代表的な弥生遺跡である静岡県の登呂遺 跡の調査が始まり、広い水田や集落の跡が発見された。 弥生式文化の範囲も、 西日本だけでなく関東や東北まで広がっていたことがわかってきた。 その段 階で「弥生時代」という言葉が出てくる。 「縄文時代」から「弥生時代」を 経て「古墳時代」へという道筋で、日本の歴史が語られるようになる。
なぜ「文化」から「時代」になったのか。 50年代は、戦後の日本が講和条 約を結び、国連に入るなど、国際社会の中で地歩を占めていった時期だ。 そ れと並行して、日本とは何か、日本人とは何かが強く意識されるようになった。 その中で、石器時代、青銅器時代、鉄器時代といった世界史共通の区分とは別 に、日本独自の時代区分が求められていたのだと思われる。
「弥生時代」は、登呂遺跡のように稲が実り、広々としたのどかな農村とい う、非常にポジティブなイメージとともに広まった。 戦後間もない頃の日本 人は、弥生に日本の原風景、ユートピアを見た。 その一方で、裏表の関係に ある縄文は、貧しい、遅れた時代ということにされてしまった。
しかし70年代になると、縄文のイメージは大きく変わる。 貧しいどころ か、豊かな時代だったという見方が出てくる。 国土開発が盛んになり、大規 模な発掘調査が行われた。 縄文の遺跡からも籠や漆を塗った椀などが見つか り、縄文人が高い技術を持っていたことが明らかになった。 一方で、弥生時 代の遺跡からは武器がたくさん出てきて、争いの多い時代だったこともわかっ てきた。 「縄文は遅れていた」「弥生は平和」というイメージが崩れてきた。
90年代になると、「縄文階層社会論」が盛んになる。 青森県の三内丸山遺 跡などが発掘され、これほど大型の遺跡がある以上、単なる平等社会ではなか ったはずだという見方が出てきた。
実際の縄文の姿はどうか。 研究の最前線では、狩猟採集の時代という縄文 の枠組み自体が揺らいでいる。 豆の栽培など農耕に近いことをやっていたこ ともわかり、生業だけで縄文と弥生を分けるのは難しくなっている。 地域に よっても大きく違う。 中国・四国地方などの縄文文化は、三内丸山遺跡のよ うな大規模な集落もなければ、人々が長期間定住していたわけでもない。 同 じ時期に様々な地域文化が併存している。
「貧しい」「自然と共生・平等」など、縄文のイメージは世相を映して、180 度変化してきた。 「縄文のイメージは、考古学的な発見とそれぞれの時代の 空気があいまってつくられてきたものです。見たい歴史を見た、いわば日本人 の共同幻想だったんです」、「縄文時代や弥生時代という大きな枠組みを設定す ること自体はいいんですが、時期や地域によってかなり違いがあることを前提 にすべきです」、「縄文に限らず、ある時代の一側面だけを切り取って、優劣を つけるのは、様々な意味で危険です」と、山田康弘さんは語っている。 縄文 の人口が全体で20万人と非常に少なかったというのも、初めて知った。
「応仁の乱」前夜、混乱の時代の幕開け(前半) ― 2020/03/31 07:00
その呉座勇一さんが、磯田道史さん司会の「英雄たちの選択」で、『京都ぎら い』(朝日新書)の井上章一国際日本文化研究センター教授と、京都東寺の境内 で「応仁の乱」前夜、混乱の時代の幕開けを語っている番組を見た。 呉座さ んは、この時代は銭(ぜに)、貨幣経済が発達し、「土倉」「酒屋」という金融業 者、つまり高利貸が力をつけ、格差が拡大した、今に似た時代だった、と切り 出した。
「応仁の乱」26年前の、嘉吉(かきつ)元(1441)年6月24日、「嘉吉の 変」が起きる。 六代将軍足利義教(よしのり)が酒の席で、播磨守護大名の 赤松満祐(みつすけ)に惨殺されたのだ。 その場を管領(かんれい)No.2の 細川持之は逃げ出し、他の大名も皆逃げた。 義教は大名家の家督争いに介入 し、「万人恐怖」と呼ばれていた。 井上章一さんは、家を誰に継がせるか、長 男が駄目で、次男を担ぐ家臣がいたりする家督争いに、他人がそこに口を出す、 最悪のパターンを数々やった、と。 細川持之は、義教の子義勝を七代将軍に 立て、幕府軍(山名持豊)に播磨に戻った赤松討伐を命ずるが、山名はなかな か出陣しない。 持之は義教のイエスマン、調整型の人間で、重臣たちは欲で 集まった集団、サークル社会、本当の仲間だと思っていない、村の寄合のよう なもので、緊急時に機能しなかった。 持之は、後花園天皇に赤松討伐の綸旨 を出してもらうよう働きかけ、朝廷と幕府の関係ができる。 山名持豊(宗全) はようやく出陣、播磨で赤松を自刃させた。
「嘉吉の変」の2か月後、9月3日、一揆勢が幕府を支える五山の一つ、東 福寺を占拠する。 「土一揆」(室町時代、近畿を中心にしばしば起こった百姓 らによる一揆。年貢の減免や徳政を求め、あるいは守護の支配に抵抗した(『広 辞苑』))勢は三万で、主要な寺社を占拠し、京都七口を抑えて都を包囲し、「土 倉」「酒屋」に押し寄せた。 足利家は寺社に荘園や特権(北野天満宮に酒麹の 独占)を認めていた。 農民は、荘園を持つ寺社の過酷な年貢に追われ、金融 業者の借金と利息にも追われていた。 一揆勢は、流通経路を抑え、徳政令(借 金帳消し)の発令を要求した。 質物の11分の1を納めて、借金の帳消しを 求める。
「俳句のおもしろさ」を中高生に語った芳賀徹さん ― 2020/03/25 07:06
家内が、渡辺木版画店でもらったきた『銀座百点』の1月号に、芳賀徹さん の「鷹女と多佳子」というエッセイがあった。 2月号の新年句会は既に読ん でいたから、1月号がたまたま残っていて、これを読めたのは僥倖だった。 毎 月25日発行の「等々力短信」だが、第1129号「詩人たちの国で」を20日付 で出したのは、芳賀徹さんの月命日に当る、お彼岸の中日だったからである。
「鷹女と多佳子」によると、「先日」というから昨秋、芳賀徹さんは初めて三 重県の桑名を訪れ、津田学園中高等学校という私立の一貫校で一こまの講義を した。 日本藝術院の派遣とあるが、それが可能なほどお元気だったわけだ。 好奇心いっぱいという顔つきの中一から高二までの60人ほどの少年少女に、 「俳句のおもしろさ」と題して、お好きな古今の句を十数句選んで、それにつ いて語ったという。 芭蕉、蕪村、虚子、漱石から中村草田男、川端茅舎、松 本たかし、篠原梵、それに永田耕衣まで、四季と無季にわけて十数句だった。 感想文では、どの句が気に入ったかを語るレポートがおもしろかったが、お気 に入りのトップはやはり芭蕉の地元桑名の浜辺での名作<明ぼのやしら魚しろ きこと一寸>。 清少納言も讃えた春の夜明けの、海(伊勢湾)と空の境目も なくひろがる藤色の光のなかに、その光を一身に集めるかのようにしていま詩 人の手のひらに踊る、あの小さな透きとおるような白魚、一匹か数匹か――と 語ると、生徒たちはいまはじめて目がさめるような顏をした。 句の最後にわ ざと、「一寸(いっすん)」と漢音の撥音(はつおん)を使ったのは、この小さ な小さな魚に宿る生命の躍動を伝えてさすがみごとだ。 こういう小さなはか ないものが見せる、それだけいっそう懸命な健気な命の力といのちへの願い、 それを感じとることを日本では昔から「もののあはれ」を知る、という。 そ れが日本文化のいちばん深いところを流れる感受性の伝統なのだよ、と説くと、 少年少女たちはみなうなずいてくれたように見えたそうだ。
十代半ばの生徒たちを少しばかりどきどきさせてやろうと考えて、正統なま じめな(?)名句のなかに、芳賀さんがしのばせたのが、春に三橋鷹女(1899 -1972)、冬に橋本多佳子(1899-1963)、お好きな女性俳人二人、「女うた」の 名手、すっきりと姿美しい女人の句だった。 鷹女の句は、短信に引用したお 年賀状にあった<鞦韆(しゅうせん)は漕ぐべし愛は奪ふべし>。 読みは、 お年賀状の通りだが、ぶらんこ遊びの起源は、おそらく古代ギリシャ、その地 出土の大杯に、若い女が木の枝につるしたぶらんこに乗って、背を半獣神に押 させている絵があると、碩学原勝郎博士が述べたという。 中国に渡って、宋 の詩人蘇東坡には名吟「春宵一刻値千金……鞦韆院落(いんらく・宮殿の中庭) 夜沈々」(春夜)があった。 日本にも平安時代にすでに伝わっていたというが、 詩では18世紀京都の蕪村の友人炭太祇(たんたいぎ)に<ふらこゝの会釈こ ぽるゝや高みより>とのなまめかしい一句がある、と語る。
多佳子の句は、同じ昭和26年の、<雪はげし抱かれて息のつまりしこと>。 15、6歳の少年少女には少し刺激が強すぎるかな、と思いながらも、まさにそ れゆえに挙げたのだが。彼らは思いがけぬほどによく反応した。 多佳子は東 京本郷のお琴山田流の師匠の孫娘で、鏑木清方の《築地明石町》の女なみの美 貌の持主だった。 大正6(1917)年満18歳の年に、大阪の材木商の次男坊 でアメリカ帰り、11歳年上の橋本豊次郎に惚れこまれて、その年結婚した。 こ の教室にいた年長の少女たちよりも、わずか1、2歳年上のときのことである。 この句は、その二人のはじめての頃の逢瀬の夜の回想だろうと、芳賀さんは思 い込んでいる。 夫豊次郎は妻多佳子に思いきり贅沢な暮しを与えてくれたの ちに、この句の14年前、妻と4人の娘を残して亡くなっていた。 「息のつ まりしこと」とは、50歳をこえたばかりの女の、切なくもなまなましく残る感 覚を告白する一句である。 教室はさすがにしばしし―んとした、そうだ。
芳賀徹さんのこの講義を聴いた少年少女が、深い感銘を受けたであろうこと は、容易に想像できる。 そして、その後芳賀徹さんの訃報に接して、さらに 深く「もののあはれ」を知ったことであろう。
詩人たちの国で<等々力短信 第1129号 2020(令和2).3.20.> ― 2020/03/20 06:55
「小生いまや くたびれ果てました」と、お年賀状の添え書き「いつも貴通信、 愛読しております」に続けられていて、心配していた。 芳賀徹さんが、2月 20日に胆嚢癌のため88歳で亡くなり、短信は長い大切な読者をひとり失った。 賀状の印刷部分は芳賀さんらしく、<鞦韆(しゅうせん)は漕ぐべし愛は奪ふ べし>という三橋(みつはし)鷹女の句を引き、「すてきな一句ですね。鷹女五 十二歳の昭和二十六年の作だそうです。「鞦韆」はぶらんこ(ふらここ)のこと。 古代ギリシャの昔から、宋代の中国でも、李朝の朝鮮でも、ロココ時代のフラ ンスでも、徳川の平和の日本でも、春になると若い娘たちは春衣に着替え、花 咲く枝に美しい紐を垂らし、それに乗って高くゆらして遊んだとのこと。/こ の句でも「漕ぐべし」の命令形で力いっぱいに蹴り上げ、「愛は」、「奪ふべし」 でさらにも春空高く攻めてゆきます。令和の日本でもこんな元気な若い人たち のぶらんこの声があちこちから聞こえてきますように」と。 新聞の訃報に、 「専門は比較文学、近代日本比較文化史。東大教授、国際日本文化研究センタ ー教授などを歴任し、99年から07年まで京都造形芸術大学長を務めた。」とあ る。
昨年7月の短信では、5月出版の『桃源の水脈―東アジア詩画の比較文化史』 (名古屋大学出版会)を紹介した。 陶淵明の「桃花源記」が東アジア諸国の 文化の中に「桃源郷」という一つのトポスをつくりあげ、流布させ、中国、朝 鮮、日本の文学と美術に長く影響を及ぼしたとして、沢山の実例を考証し、そ れが芳賀さんお得意の徳川の平和の日本で、桃源の詩画人、與謝蕪村によって 桃花のごとき花盛りの季節を迎えたとする。そこで9月の短信には折から開か れていた、與謝蕪村とその弟子呉春(松村月渓)の作品を中心に展観した大倉 集古館の「桃源郷展」の案内を同封したのであった。
芳賀徹さんを知ったのは、昭和43(1968)年5月の中公新書『大君の使節 幕 末日本人の西欧体験』を読んで魅了されてからだ。 その5年後、11月10日 に三田の塾監局で開かれた福澤諭吉協会の第一回「土曜セミナー」で、まだ東 大の助教授だった芳賀さんの「福澤諭吉の文章」を聴いた。 特筆したいのは、 平成4(1992)年秋の福澤協会「芳賀徹氏と『西洋事情』を読む会」を短信に 書いたのをきっかけに、明治日本の水道の先生W・K・バルトンが、近代日本 のシナリオとなった福沢諭吉の『西洋事情』に大きな影響を与えた、ジョン・ ヒル・バートンの長男だったことが判明したことだ。
「この列島の代々の住民の窮極のアイデンティティは、これが詩の国、詩魂 の国」「天地山川のわずかな動きにも心おののき、わが身の小ささを感じ、人間 の命運に想いを馳せずにはいられぬ詩人たちの国である。」(『詩の国 詩人の国』 筑摩書房)
(毎月25日発行の「等々力短信」、この号を20日付で発信したのは、芳賀徹 さんの月命日に当り、お彼岸の中日だったからです。)
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