『つむじ風食堂の夜』の不思議な世界 ― 2009/04/25 01:02
吉田篤弘さんの『つむじ風食堂の夜』の主人公である私が、その屋根裏部屋 に住んでいる月舟アパートメントは、不思議な建物だ。 急な階段があるのだ が、屋根裏の七階から地上に降り立つまで三十六段しかない。 一階あたり六 段、ほとんど「よじのぼる」という感じで、のぼらなければならない。
月舟町が、北欧か何かの町のような気がしたのは、つむじ風食堂の常連仲間、 帽子屋の桜田さんが売っていた〈二十空間移動装置〉によって、じつをいえば コペンハーゲンにいるせいなのかもしれない。 プラスティックで出来たマッ チ箱大の、きっかり三千五百円のそれは、万歩計にしか見えないけれど、そこ へ帽子屋さんなりのロマンを乗っけて、あと十万歩歩いたらコペンハーゲン到 着、と決めちゃえばいいのだ。
私は屋根裏部屋に〈雨の机〉と〈その他の机〉の二つの机を持っている。 一 つは積年のテーマである「人工降雨」の研究のため、もう一つは一生を棒に振 りそうな研究による貧窮をカバーする雑文書きのためのものだった。 あるス パイス卸売会社のPR誌から頼まれたのは、世界中の「唐辛子」に関する伝説 を、「楽しい感じ」で書いて欲しい、というもの。 探すと近所のロバート・デ・ ニーロが日本の大工の親方に扮したような古本屋に、『唐辛子千夜一夜物語』と いう立方体のように分厚い本があった。 著者名はなくて、出版社は〈空中一 回転書房〉、トゥー・エクスペンシヴ、ベリー・エクスペンシヴ、三百万円だと いう。 デ・ニーロの親方は、買えない先生は俺を憎むだろう、俺と先生の友 情のために、こんな忌々しい本は焚き火にくべて燃やしてしまった方がいいん だ、と言う。 その本の運命は、いかに…。
どうです。 よく分からない、不思議な雰囲気の話でしょう。
桑原三郎先生のお手紙<等々力短信 第998号 2009.4.25.> ― 2009/04/25 01:03
桑原三郎先生が1月21日に亡くなられた。 先生は「等々力短信」のよき 読者のお一人で、筆まめは敬愛してやまない福沢先生ゆずり、しばしば感想の お手紙を頂戴し、700号記念の会ではスピーチをして下さった。 お手紙のご く一部を紹介したい。
桑原先生は平成2(1990)年に、63歳で幼稚舎を辞める決意をなさった。 1 月20日付のお葉書「小生この三月末で幼稚舎を辞めることにしました。選択 定年を利用し二年ばかり早いのです。子供と一緒に走れなくなったし、歯も脱 けて言語不明瞭になってしまったのが第一の理由で、第二、第三、第四と理由 を数え挙げればきりはありません。」
平成3(1991)年4月14日付「等々力短信 訂正二件、拝読致し大いに共鳴 致しました。私もある人の著書に書いてあることを間違いないと思っておりま したところ、一ヶ月程前にその間違っていることを発見しました。初め『どう してこんないい加減なことを本に書くんだよ』(←この部分傍点)と心の中で怒 っていましたが、ふりかえって自分の本のことを考えてかなり落ちこんでしま いました。反省訂正あるのみですね。御姿勢に拍手を惜しみません。」
平成3年6月25日の短信「お札の顔同士」に対して同日付「グリム兄弟が 統一ドイツのお札の顔になったことを教えて頂き嬉しくなりました。拙著『諭 吉 小波 未明』に言及して下さいまして御芳情心から感謝致します。(中略)然 しナポレオンがゲーテにあった時のように、グリム兄にもし会ったとすれば福 沢先生は何か感じたに違いないから、そのことに言及されたろうという気もし ます。何もお書きになっていないから、先生は会っていないのではないか…と これは勝手な推測です。グリムを明治二十年初めて紹介した菅了法は慶應義塾 の大先輩で福澤先生に極く近い人でした。もし先生がグリムに会っていたなら、 先生は菅了法と、楽しいグリムとの出会いを話題にしたことでしょう。明治二 十年と言えば、先生はまだ五十二歳、菅は三十歳でしょうか。」
平成8(1996)年7月17日付「短信の「さわやかな笑顔」を拝読してびっ くりしました。水科君は私の組ではありませんが幼稚舎生時代、隣の組で名前 と子供の頃の顔は知っていました。個人的に話したことも無かったのですが、 まだ五十四か五歳で亡くなるとは痛ましい限りです。/それにしても温い弔文 で、私も水科君がそういうお人柄だったのかと心嬉しく、水科君の御冥福をお 祈りする次第です。」
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