宿題の小さな墓石を見に行く ― 2010/10/13 06:49
11日、体育の日。 朝、朝日新聞「俳壇・歌壇」で冨士眞奈美さんの「うた をよむ」を読んだ。 「近頃の楽しみは、新聞一紙を持って馴染みの店でラン チをしたり、コーヒーを飲んだりすることである。何時に起きようが、いつ寝 ようが気儘。好きなものを食べ、本を読みTVを見、たまに仕事をする。真夜 中にハーモニカを吹いたって誰からも叱られない。時間は全部自分のもの、限 りなく自由なのである。」 〈どこへ行かうとわたしの勝手水澄めり〉
それで午後、あんまり天気がよいので、思い立って麻布善福寺の福沢諭吉の 墓所へ、問題の小さな墓石を見に行った。 福澤諭吉の墓を向いた正面に「高 仲熊蔵 は○ 墓」、側面に「熊蔵 万延元年二月二日生 明治四十年十月二十七日 歿 はな 大正六年四月十五日歿」とあるが、裏面に何か書いてあるのは読めな い。 高仲熊蔵 はな 夫妻とは、どんな人物か、聞いたことがなかった。
帰宅して、まず『福澤諭吉全集』の索引で「高仲熊蔵」を探す。 「高仲熊 蔵」はなく、「高中萬蔵」というのが10か所あり、もしかしたらこの人かと思 って、読み出す。 「萬蔵」は、長く福沢家に勤めていた、信頼の厚い家僕だ った。 明治22年9月16日から10月5日までの家族での関西旅行にも同行 しており、息子たちと共に奈良の大仏の柱の穴をくぐり、福沢の道中日記に「萬 蔵も首尾能くぬけたるは平生正直なるが故ならん」とある。 明治28年3月 福沢夫妻が三女のしゅん(俊)を日本郵船広島支店在勤の夫・清岡邦之助の所 へ送り届けたのを、5月になって迎えに行くのに、誰をやろうか、やはり「萬 蔵」がいいか、と手紙で尋ね、結局「萬蔵」が行っている。 明治38年8月7 日、福沢家の雑種灰色斑の犬が狂犬病を発症し、「萬蔵」が手首を噛まれ、伝染 病研究所に入院、福沢は研究所国手宛に老僕への適切な治療を依頼する手紙を 書き、10日の『時事新報』に雑報記事として書いた。 はたして、この「高中 萬蔵」が「高仲熊蔵」なのかは、また明日。
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