成就院「文覚上人荒行像」と碌山の「文覚」2010/10/22 06:58

帰国後の荻原守衛は、まったく制作が進まなかったらしい。 夫のある相馬 黒光との密かな愛に懊悩していたのだ。 やすらかな顔をした黒光が、新宿中 村屋に近い守衛のアトリエの炬燵で寝ているスケッチがある。 守衛の思いと 苦悩に気付いていた黒光は、制作意欲を高める一助になればと、成就院の「文 覚上人荒行像」を見ることを勧めたのだった。

 成就院で頂いた『成就院~紫陽花と縁結びの寺~』(かまくら春秋社)という 小冊子のコラム「文覚像に秘められたふたつの恋」によれば、こんな事情があ った。 黒光は女学生時代、鎌倉にあった星野天知(「文學界」の主宰者)の文 芸サロンに出入りしていた。 その頃、星野が雑誌「女学生」に「怪しの木像」 と題して書いた「文覚上人荒行像」の話が強く記憶に残っていたのだ。 明治 女学校で教師をしていた星野天知は、学校の夏の合宿で成就院を訪れた際に、 「文覚上人荒行像」を見て、当時、教え子への許されぬ恋情に悩んでいた自分 と文覚上人を重ね合わせたという。

文覚上人は、平安末期から鎌倉時代初期を生きた真言宗の僧侶だが、元は遠 藤盛遠という名の北面の武士だった。 出家した理由は、従兄弟の妻、袈裟御 前に許されぬ恋情を燃やした末、従兄弟と間違えて袈裟御前を殺してしまった ことにあった。 文覚上人は非を悔い、袈裟御前への贖罪のため、壮絶な修行 を重ね、後に滝に打たれる自らの姿を木像に刻んだ。

1908(明治40年)夏、夫ある黒光への許されぬ恋情が頂点に達していた荻 原守衛も、黒光と一緒に、成就院の「文覚上人荒行像」を見た。 「僕は之を 一瞥した其の瞬間の印象を今も尚打ち消す事が出来ぬ」という強い衝撃を受け、 文覚の「煩悩の執着より解脱せんと懊悩している 内心の波乱」を感じた。 そ の後すぐ、ある漁師をモデルに制作にとりかかった。 「文覚」は、その年の 文展に入選し、この作品によって荻原守衛は「日本の近代彫刻のパイオニア」 と呼ばれる。 腕を組み、右の虚空を睨んだ「文覚」は、安曇野の碌山美術館 にある。