米山光儀さんの「「修身要領」再考」(2)2012/05/24 02:13

 〈3〉慶應義塾における「心の習慣」の形成

米山光儀さんは、慶應義塾の心の教育を振り返る。 それは段階によって、 変わってゆく。 ○築地鉄砲洲時代…適塾での経験の影響があり、適塾と同じ ことがやられていて、食堂の様子は「戦場の如く」、片付けなどに頓着せず、勉 強する。 ○芝新銭座時代…三度の外遊で変ってくる。 「慶應義塾之記」(1868 (慶應4)年)では、学問をますます盛んにすることと共に、塾中の規則、静 粛にするなど「風儀」への取り組みにもふれている。 福沢による「ウェーラ ンド氏修心(ママ)論講義」があり、上野彰義隊の戦争の日を記念するこの講 演会も講義の曜日が違っていれば、「福澤先生ウェーランド修心論講述記念日」 だった可能性もあった。 ○三田移転後…「慶應義塾社中之約束」(1871(明 治4)年~)や「入塾の人に告る文」(1871年)では生活のルール、「善き習風」 を示した。 それは徳目主義のようなものとは一線を画し、生活の中で知らず 識らず身につける「風」(雰囲気)をつくっていくことの重要性が求められた。  三田演説会、萬来舎など、学生たちの活動、団体の活動もあった。 明治6年 の「慶應義塾社中之約束」には、日曜休み、午前8~10時、すべての生徒に修 身の道を教授す、とあり、日曜礼拝のイメージだろうが、翌年なくなる。

 〈4〉「修身要領」制定の背景と影響

それまでの主張と矛盾して、「修身要領」を成文化したのは、なぜか。 明治 20年代の終わりから、30年代の頭にかけて、対処しなければならない、敢え て語らなければならない状況、さまざまな問題があったからだろう。 慶應義 塾と、広く日本社会の状況を見て、舵を切ったと考えられる。

 「慶應義塾の目的」1896(明治29)年11月1日の慶應義塾懐旧会での「気 品の泉源、智徳の模範」演説。 慶應義塾に対する危機感と期待感。 福沢の 発病(1898(明治31)年)と回復、長くは生きられないという予感。 『福 翁自伝』(1899(明治32)年)の最後の「生涯の中で出来してみたいと思うと ころは全国男女の気品を次第々々に高尚に導いて真実文明の名に恥ずかしくな いようにすること」。(近年の福沢研究が明らかにした、福沢が一貫して主張し て来た文明の主義が現実には日本の社会に定着していないことを認識しての危 機意識、失望、挫折感。 私(馬場)が『福澤手帖』(福澤諭吉協会)152号で 紹介させてもらった松沢弘陽さんの校注本、新日本古典文学大系 明治編」『福 沢諭吉集』(岩波書店)も、その流れと言及。)

 福沢が印税で費用を負担し、3~4人が組んで、「修身要領」普及講演が行わ れる。 日露戦争前までに100回近く、日露戦争後もやっている。 福沢死後 の1908(明治41)年から始まった慶應義塾地方巡回講演でも、鎌田栄吉など がしばしば「修身要領」を取り上げ、大正期に及んでいる。 「修身要領」の 一般への影響は、まだあまり研究されていない(若干の事例報告、外国のもの もあるが…)。

 「修身要領」は、1947(昭和22)年の教育基本法につながる(この件、別 に詳述する)。

 〈5〉おわりに

 福沢は1900(明治33)年の末になって、募集をしていた慶應義塾基本金の 充実が望めないと考え、慶應義塾を廃し、その土地を売ってその代金を「修身 要領」の普及の運動に使用したいとの意向を、副社頭小幡篤次郎や塾長鎌田栄 吉に漏らしたことが、日原昌造宛の両氏の書簡にある(『慶應義塾百年史』中巻 (前)1296-1298頁に引用)。 慶應の中にいる私たちは、それをどんな風に考 えたらいいのか。 福沢がそうした意向を持っていたこと、それほどのものが 「修身要領」に含まれていたことを自覚的に考えねばならない。 成文化され たモラルコードの内容を議論するのではなく、初期の慶應義塾で行われていた 「心の形成」をどう考え、やっていくか、そうして「修身要領」を乗り越えて いくことが私たちの課題である。