ヘンリー・ダイアーの出自、来日事情、結婚2022/08/03 06:53

 『ヘンリー・ダイアー物語』は、第一章「若いころ」、第二章「日本における活動」、第三章「晩年」、第四章「ダイアーが残したもの」から成っている。

 第一章「若いころ」は、「訳者あとがき」で指摘されているように、子孫が丹念に調査して書いたものだから、ダイアーとダイアー家の人々の出自や住居、職業が詳らかにされた。 ダイアーは、労働者階級の出身であることが明確になった。 アイルランドから職を求めてスコットランドからやって来た父ジョンは、鉄や石炭が発見されたことでにわかに景気にわきたつ鉄工場などを渡り歩いた。 一家はショッツからグラスゴーに転居、ヘンリー・ダイアーは徒弟修業に入るが、ホイットワース給費生に選ばれて、アンダソン・カレッジ(ストラスクライド大学の前身)の夜間課程に学ぶことができた。 さらにグラスゴー大学に進学、成績優秀で、数々の受賞やホイットワース奨学金を授与されるほどであったから、恩師のマックオーン・ランキン教授の推薦で日本にやって来ることになったのだった。

 これより先、日本に支店をもっていたジャーディン・マセソン商会のヒュー・マセソンは、伊藤博文から、工部大学校の教師陣6名の人選を依頼された。 マセソンは、グラスゴー大学の初代工学教授だった遠縁の従兄弟ルイス・ゴードンに相談、ゴードンは自身の後任教授マックオーン・ランキンに話を伝えた。 ランキンは人選について数々の提案をしたが、その一つが、1873年卒業予定のもっとも優秀な教え子ヘンリー・ダイアーを工部大学校の都検(教頭)に任命してはどうかというものだった。

 1873(明治6)年4月、ヘンリー・ダイアーは、林董(ただす)在ロンドン駐英公使に付き添われ、サウザンプトン港を出港した。 航海中は主に工部大学校の学校要覧の作成にあて、日本に到着すると修正されることなく山尾庸三工部大輔に受理されたと、自著『大日本』の中で語っている。

 マリー・ファーガソンとの結婚の事情も明らかになった。 マリーは許婚で、1年ほど遅れて1874(明治7)年5月19日、香港経由の英国蒸気船ベハー号で来日、同月23日、横浜の英国公使館で、駐日英国公使ハリー・パークス卿出席のもと、英国国教会様式の結婚式が行われた。

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