チャーチルとケネディ駐英大使<等々力短信 第1179号 2024(令和6).5.25.> ― 2024/05/25 06:53
チャーチルとケネディ駐英大使<等々力短信 第1179号 2024(令和6).5.25.>
友人が送ってくれた広谷直路著『「泣き虫」チャーチル 大英帝国を救った男の物語』(集英社インターナショナル・2023年12月)に、知らなかった興味深いことが書いてあった。 広谷直路さんは、1942年生まれ、東京外国語大学卒、ノンフィクションエディターで、集英社のPLAYBOY日本版、翻訳書や新書の編集長を歴任されている。
1940(昭和15)年6月18日にフランスが降伏したあと、イギリスは単独でナチスドイツと戦わなければならなかった。 なにより待ち望まれるのは、アメリカ合衆国の軍事支援であり参戦だった。 チャーチルは5月首相に就任してすぐ、支援を求める親書をフランクリン・ルーズベルト大統領(58歳)に送っていた。 ところがアメリカの国民感情には、第一次世界大戦に引きずりこまれてひどい目にあった、ヨーロッパの戦争はヨーロッパ諸国だけで戦うのがよい、二度と我々を巻き込むな、という孤立主義の潮流がしっかりあった。 さらに、ルーズベルトはジョージ・ワシントン以来の慣例であった2期8年の任期をこえて、史上初の大統領三選に挑んでいる最中だったから、孤立主義者の反発をかう参戦表明などできる状況ではなかった。
チャーチルとルーズベルトをつなぐ立場にいたのが、ジョン・F・ケネディの父、ジョセフ・ケネディ駐英大使だったが、孤立主義を支持していた。 アイルランド系移民の3代目で、カトリック教徒だが2代目が財を成し、アメリカ社会でトップにのし上がることを目指して、ハーバード大学で学び、大恐慌の株価大暴落も直前に売り抜けて資産を守った。 1932年の大統領選挙で民主党のルーズベルト陣営の資金面で貢献し、証券取引委員長に就任、2期目は財務長官のポストを要求したが、容れられず駐英大使になった。 1938年2月駐英大使就任、その翌月ヒトラーがオーストリアを併合した。
アメリカ大統領選挙が間近に迫った1940年10月、ルーズベルトが駐英大使をないがしろにして、大統領特使を送り込んでくるのに腹を立てたケネディは「辞任する」と伝えたが、ルーズベルトはあわてずケネディを帰国させ、翻意させる。 3期目の政権での新しいポストと、ケネディの息子たちの政界進出を後押しする約束をしたらしいといわれた。 ケネディはルーズベルト支持を表明、ルーズベルトは「地滑り的」大勝利をする。 ケネディは新聞に「英で民主主義消滅、わが国にもその可能性」と語ったため、全米から解任を求める手紙がホワイトハウスに殺到、駐英大使を解任された。
日本の真珠湾攻撃で、ルーズベルトはチャーチルに「同じ船に乗った」と書く。 80年を経て、EUとロシア、イランとイスラエル、中国と台湾の万一の戦争に、アメリカの支援や参戦はあるのか、大統領選挙とのからみは、そんなことを思う。
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