三國一朗『戦中用語集』「学徒出陣」 ― 2025/08/23 07:11
三國一朗さんに『戦中用語集』という岩波新書がある。 1985(昭和60)年、戦後40年の刊行だ。 今年は戦後80年、さらに40年が経った。 三國一朗さんはテレビ司会者だったが、知ってる人は少なくなったかもしれない。 2000(平成12)年に亡くなっている。 1921(大正10)年の生まれ、私の生まれた1941(昭和16)年4月に、東京大学文学部の社会学科に入学した。
『戦中用語集』の「学徒出陣」の項を読む。 この言葉の起源については、いくつもの異説があるが、その最も早い前兆が昭和16年10月16日の「大学・専門学校在学年限短縮決定」だったことは、自身の経験にてらして明言することができる、と言う。 入学した4月の当座、自分の修学年限が3年間であることに、少しも危惧や疑念を抱かなかった。 それが半年後の10月16日の発表で、6か月短縮されて2年半になると知らされた。 どの年度が「短縮」されるかは、入学の年度によってちがい、三國さんは2年目の1年間が6か月になり、1年前に入学した先輩は3年目が6か月に切りつめられた。 もう1年上級の当時3年生の先輩たちは、6か月短縮といっても、すでに3か月の線を切っている。 この年度の学生諸君は、多少の日付けの異同はあっても、とにかく年内の12月中に卒業し、それぞれのコースに従って、陸軍に入る者は陸軍に、海軍に入る者は海軍にと、あわただしく入隊しなければならなくなった。
三國一朗さん自身は、昭和18(1943)年9月に繰り上げ卒業し、昭和19(1944)年1月から終戦まで、旧満州、樺太で軍隊生活を体験する。
「学徒出陣」の続き。 「大学・専門学校在学年限短縮決定」の2か月後の12月13日、それぞれの身辺整理に忙殺されていた文学部3年生のために「東京大学文学部卒業生送別祝賀会」が神田の軍人会館(現在の九段会館)5階の講堂で催された。 その5日前に、もう「大東亜戦争」が始まっている。 1年生だった三國さんももちろん出席し、辰野隆(フランス文学)はじめ何人かの教授のスピーチや、東大グリークラブ員が合唱する「海行かば」、徳川夢声の話(余興の漫談)も聴いた。 そこで、どうしても考えこまずにいられなかったのは、卒業生より2年後輩に当たる自分自身の、いずれは軍服を着なければならない運命だった。 灯火管制のため黒いカーテンで窓を蔽った室内の、「送別祝賀会」のあの重苦しい思いの記憶だけは、40余年後の現在でも薄れていないで、なにかにつけ、ふと思い出す。
2年後の昭和18年10月21日、いまでも当時のニュース映画の断片がくりかえし上映される、雨の中の「分列行進」が神宮外苑で行われた。 東条首相らの閲兵を受けているのは、三國さんの1年下級の諸君だった。 10月12日の閣議決定、即ち法文科系学生に対する徴兵猶予の停止によって、彼らは戦場へと狩り出されることになったのである。 大学の学年では1年下級の諸君が、その少し前に事無く卒業式をすませ、制服を脱いでいた三國さんたちよりも早く軍隊の人になった一事を見ても、当局の慌て方がわかるような気がする、という。 あの雨中の式典は「出陣学徒壮行会」と名づけられ、文部省と学校報国会の共同主催だった。
当時慶應義塾大学の塾長だった小泉信三は、この年の前年、海軍主計大尉だった令息を戦死させていた。 小泉塾長がそのとき思いついたのは、出陣学徒へのはなむけとして、野球の早慶戦を実現することであった。 当時は学生野球も前年秋のリーグ戦を最後に、昭和18年の文部省通達で連盟が解散、早慶戦など実現しそうになかった。 しかし、それは実現した。 雨中のパレードの5日前の10月16日、快晴の戸塚球場で「出陣学徒壮行早慶戦」が実現し、10対1で早稲田が勝った。 試合後、早稲田は慶應の、慶應は早稲田の応援歌を合唱したが、それもやがて、あの「海行かば」の全員大合唱に盛り上がっていった。
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