小林一三の「平凡主義礼賛」<等々力短信 第1192号 2025(令和7).6.25.>6/23発信 ― 2025/06/23 07:16
小林一三の「平凡主義礼賛」<等々力短信 第1192号 2025(令和7).6.25.>
『三田評論』6月号が通巻1300号記念号で、「三田評論と昭和100年」を特集している。 昭和になってまもなくの昭和3(1928)年11月号に掲載された、小林一三の「平凡主義礼賛」という慶應義塾大学最上学年の学生に対する講演が再録されている。 小林一三は塾員で、阪急東宝グループの創始者、電鉄を中心にした多角経営のモデルを創案した。 今年1月世田谷美術館の「東急 暮らしと街の文化―100年の時を拓く―」展を見て、小林一三が、渋沢栄一の田園都市株式会社の経営に参画しており、小林一三を通じて五島慶太がこの事業に協力し、それが今日の東急につながったことを知った。 それで改めて、阪田寛夫著『わが小林一三 清く正しく美しく』を読み、何日かのブログに、小林一三は三田の山から初めて海を見たか、三井銀行入行、大阪支店、名古屋支店での遊びぶり、79歳で明かした愛人との結婚の事情などを、綴ったのであった。
さて、「平凡主義礼賛」である。 就職を東京でするか、大阪でするか、大阪だとこういう御利益があると、手前味噌の話から始める。 入社してくる連中に、平凡主義を鼓吹している。 毎日平凡に平凡に暮らす間に、一頭地を抜くと云うことの外に、名案はないと信じている。 大阪は民衆の大都会だが、すべてのリーダーが実業に興って、コツコツと仕上げた人である。 事業としての電気鉄道の経営は、将来は一般乗客の為に利益の大部分を犠牲に供すべきものだ。 毎日出入りする公衆に便利を与えて、そしてウマイ商売をして見たい。 ターミナルで老舗の大きなデパートメントを経営する計画だ。 民衆芸術論、大劇場論を東京でもやって見たい。 民衆相手の仕事を研究すればするほど、これからの世の中は平凡主義でなければならぬ。 私の会社に入ると、工学士、法学士、電気技師も、一遍は必ず車掌運転手をさせられる。 自らが平凡な民衆の一員となって働かねばならないということが、阪神急行のモットーである。
具体的なアドバイスもある。 学校を出て会社に入ると、何も彼も新進の知識を得ているので、みな馬鹿に見える。 いろいろなことが馬鹿に見えるが、下らないことが諸君には分からない。 この時そこに共通の欠点が現れてくる。 誰にも聞かない、聞くのをいやがるのだ。 「聞くに越したことはない」。 「議論をしてはいけない」。 もし実行を伴わない議論ならば三文の値打ちもない空論である。 提案したのを、上役が自分の説にしたら、それを実行する。 それは福澤先生の「縁の下の力持は必要である」という教えに一致する。 これが一番成功の秘訣だと考える。 結局、実行せしめれば宜しい。 「盛んな時には行くな」「人の前では力(つと)めて敬語を使え、二人の中では言い度いことを言え」。 残念、この講演、就職する前に聞きたかった。
福沢「分権論」の意義と可能性 ― 2025/05/29 07:01
「トクヴィルの分権論」。 二つの集権 : 政治的と行政的。 政治的集権がなければ国は分裂、しかし行政的分権を伴うと、過度な集権化により人民の自治の気風喪失。 英仏独の近代化の違い、英がいいとする。 アメリカ、各地が自治、ベスト。
福沢は、「分権論」に、「中央の政府は政権を執り、地方の人民は治権を執り、互いに相依り互いに相助けて、ともに国安を維持するの決定を得るときは、人々始めて日本国の所在を発見して、公私の利害、その集むるところの点を一様にする」 「今のときに当たりては、我が人民は国の所在を知らず」と、当事者意識を持てとした。
福沢の「通俗民権論」(1878)。 「地方にて人民が相談の上にて、井戸を浚え、芥溜(はきだめ)を掃除し、火の用心、夜廻の番を設け、作道を開き、土橋を掛け、宮寺を建立し、常夜灯を灯し、師匠を招待して町村の子供を教え(中略)、これらの相談につき町村の人民が寄り合い、入り用の銭米を取り立てその遣い払いをなして一町一村の便利を起こし」 江戸時代から、自治をやってきたのに、明治になって中央集権によって、それが消えつつあるとした。
そして「地方議会の必要」を説く。 「かかる国会を設けて各地方の総代人を集めんとするには、まずその地方にて人民の会議を開き、土地のことは土地の人民にて取り扱うの風習を成し、地方の小議会中よりそれぞれの人物を撰びて中央政府の大会議に出席せしめ、始めて中央と地方との情実も相通じて国会の便益をも得べきことなり」 まず地方で、旧士族が役割を果たす、地方議会をやり、それを国会へと段階を踏む、見事な議論。 福沢は、政府と違う筋道と段階を、見ていた。
「福沢の分権論の意義」。 「士族反乱から自由民権運動にかけての時期に、独自の地方論、帝国議会の開設(1890)に先駆け、日本の議会化を展望。」 「不平士族を地方自治を担う市民へと転換する大胆な発想、政治を担うメンタリティ。」 反乱については、心の中で持てばいい、暴力で解決するのではなく、自分たちの地域でやる。 治権はバラバラに、当事者意識を持って、自分たちの問題として、「ポリティカル・アイデアズ」を持ってやる。 遠大な考えだが、適切な考え方で、福沢の説いた通りになれば、日本の政治も別のものになったであろう。
最近の若い研究者には、地方政治が全国政治に先行したと、実証的に裏付けた研究もある。 前田亮介『全国政治の始動』(東京大学出版会)、松沢裕作慶應義塾大学准教授の岩波新書『自由民権運動』〈デモクラシー〉の夢と挫折。 江戸時代からの運動が、明治へとダイナミックに流れ込んでいる。
福沢諭吉の「分権論」 ― 2025/05/28 06:51
福沢諭吉が「分権論」を著したのは1876(明治9)年、佐賀の乱(1874)、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱(1876)、西南戦争(1877)と、士族の反乱の時期だった。 福沢は、トクヴィルの分権論を応用することで、この状況に対応することを考え、士族を転じて地方自治を担う市民へと発想転換した。 福沢は本気で、政治的意図を狙い、明治時代の道筋を示そうとした。
「徳川政府の初めより嘉永年間に至るまで、国事に関する者は必ず士族以上の人種に限り、農工商の三民はただその指揮を仰ぎて僅かにその身体を養うに過ぎず」 「概してこれを云えば士族の生は国事、政治の中にありて存し、四十万の家に眠食する二百万の人民は、男女老少の別なく一人として政談の人にあらざるなし」
アメリカでは、国民が「ポリティカル・アイデアズ」を議論する。 レーガンの保守、オバマのリベラル、トランプと、そうしたある種の議論が、政治を動かす。
福沢の「士族の三類型」。 (1)新政府に地位を占める者(官僚)、(2)官を求めて官を得ざる者(不満、反発)。 その二つが、改新の党。 (3)士族固有の気力を持続してその形を変ぜざる者(「往々有力なる人物ありて、その品行賤しからず」と、同情的)→守旧の党。
「士族の不満」。 維新によって利禄を喪失、他に活計の方法なし。 士族の面目の喪失。 郵便の便利と著書、新聞紙の出版→田舎の士族が東京の事情を知ることが速くなり、何かせねばと考える。(これは、メディア論。グーテンベルクの活版印刷の発明以後、多くの人が情報を使えるようになった。)
「分権論」で、福沢は「国権の区別」をした。 政権(government): 法律の制定、軍事、租税、外交、戦争、貨幣。統一国家がやらねばならぬこと。 治権(administration): 国内各地でその地方に居住する人民の幸福を図る、警察、道路、橋梁、堤防、学校、社寺、遊園、衛生。
宇野重規さんの「トクヴィル分権論と福沢」 ― 2025/05/27 07:16
24日は交詢社で福澤諭吉協会の総会があり、宇野重規さんの「トクヴィル分権論と福沢」という記念講演を聴いてきた。 宇野重規さんは、東京大学社会科学研究所教授、研究所所長で、専攻は政治思想史、政治哲学。 2020年、日本学術会議の新会員に推薦されながら任命拒否された6人の1人、朝日新聞に毎月末「論壇時評」を連載している。 『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社2007年6月)(第21回サントリー学芸賞)、『民主主義とは何か』(講談社現代新書2020年10月)(第42回石橋湛山賞)、『実験の民主主義-トクヴィルの思想からデジタル、ファンダムへ』(中公新書2023年10月)など、多数の著書・論文がある。 (私はファンダムが分からず、検索する「fandom…趣味・アニメ・漫画・小説・スポーツなどの熱心なファンたち、その世界、彼らによって形成された文化。」)
宇野重規さんは、2021年に『近代日本思想選 福沢諭吉』(ちくま学芸文庫)というアンソロジーを出している。 「分権論」はもちろん「明治十年丁丑公論」「痩我慢の説」も収録している。 講演要旨は、福沢は『アメリカのデモクラシー』を日本の現実に引き付けて読み解き、トクヴィルの「分権論」を明治日本における地方議会構想に適用したことは、福沢のトクヴィル読解の精髄であり、今なお示唆的である、と。 まず、福沢について、上手いな、勘がいい、思想的なポイントをパッとつかむ、切れ味の良さ、こう語るのかと感心させられるという。
トクヴィルと福沢は、1805年と1835年の生れ、ほぼ同時代で、ともに25歳の時に、異邦人としてアメリカへ行き、これだ、とアメリカを軸に国を考えるようになった。 トクヴィルは、人類は平等化の方向に向かっている、民主社会に向っている、とした。 福沢が一身にして二生を経ると言ったように、トクヴィルも二つのまったく違う時代を生きた。 トクヴィルは、革命後に貴族の家に生れ、ルイ16世亡き後と嘆く、保守反動の暗い家に育った。
福沢が『文明論之概略』でギゾーの『ヨーロッパ文明史』を参考にしたが、ギゾーはトクヴィルがソルボンヌ大学で学んだ教授だった。 ギゾーは1830年の7月王政の首相、ブルジュア政治家、評判が悪く1848年二月革命を招いた。 『ヨーロッパ文明史』は、巨視的に、ヨーロッパの発展は多元性(相反する要素の併存、教会と世俗権力)によるとした。 対立や分裂が、ヨーロッパのダイナミズムを生み出し、貴族にも意味がある、と。 自由と中央集権化(絶対王権)。 両者が衝突したのが、英仏の革命(ピューリタン革命とフランス革命)。
『文明論之概略』、「西洋の文明は、その人間の交際に諸説の並立してようやく相近づき、遂に合して一となり、以てその間に自由の存したるものなり(中略)。顧みて我が日本の有り様を察すれば大いにこれと異なり」 「日本の人間交際は、上古のときより治者流と被治者流との元素に分かれて、権力の偏重を成し、今日に至るまでもその勢いを変じたることなし」。 日本では、自由とダイナミズムを生み出すことはなかったとする。 『文明論之概略』で、福沢はギゾーのスタイルで、日本の信長、秀吉、家康を描いた。
咸臨丸の一生<等々力短信 第1191号 2025(令和7).5.25.>5/23発信 ― 2025/05/23 07:03
咸臨丸の一生<等々力短信 第1191号 2025(令和7).5.25.>
文芸誌『雷鼓』の誌友、志摩泰子さんが『関寛斎評伝 医は仁なり』を自費出版された。 関寛斎(1830(文政3)年~1913(大正2)年)は、幕末・明治期の蘭方医で、上総(現、東金市)に生れ、佐倉順天堂の佐藤泰然に入門、銚子の浜口梧陵の支援で長崎に赴きポンペに学んだ。 のち、徳島藩医となり、戊辰戦争では新政府軍の奥羽野戦病院頭取を務め、晩年は北海道開拓に尽力した。 志摩さんは、徳島のお生れで、夫君の赴任でオランダ生活もされ、千葉県で刊行されていた『雷鼓』の誌友との関係など、関寛斎との地縁があった。 長く関寛斎に関心を持って、調査を続け、幕末史も渉猟して、4年がかりで原稿用紙500枚に綴ったものを、厳選、推敲してまとめられた。
黒船来航、日米和親条約締結の後、安政2年幕府は長崎海軍伝習所を創った。 安政4年その第二次教師団とともに、出島の商館医としてポンペ・フォン・メーデルフォールトが、幕府が新たに注文した軍艦ヤパン号(日本丸)でやってきた。 ロッテルダム近くのライン河口キンデル・ダイクの造船所で造られた、このヤパン号こそ、和名咸臨丸である。 万延元年、日米修好通商条約批准のための遣米使節団を乗せた米軍艦ポーハタン号に随行して、木村摂津守喜毅、勝海舟、小野友五郎、福沢諭吉、ジョン・万次郎を乗せて太平洋を渡る。 万延元年11月、31歳の関寛斎は長崎に留学する。 3年前に師泰然の次男松本良順の働きかけで設置された長崎養生所医学校で、このポンペに西洋医学を学ぶ。 ポンペ講義録や解剖記録をまとめ、『七新薬』三巻を刊行した。
咸臨丸は、戊辰戦争で、慶応4年8月海軍副総裁榎本武揚の指揮下で、旧幕府艦隊として江戸から奥羽越列藩同盟の支援に向かうが、銚子沖で暴風雨に遭い艦隊とはぐれ、下田港に漂着。 修理のため徳川家のお膝元、清水港に入港し、白布を振っているにもかかわらず新政府軍によって乗組員は惨殺されてしまう。 清水次郎長は、「死ねば皆仏」と遺体を引き揚げ、寺に埋葬した。 その後、咸臨丸は新政府軍の手に渡り、帆船として民間に貸与され運搬船で使われた。 最後は旧仙台藩白石城主である片倉小十郎邦憲の家来の蝦夷地移住者398人を乗せて小樽に向う途中、激しい暴風雨に見舞われ、木古内町の更木崎の暗礁に乗り上げた。 乗船者は無事陸地に辿り着いたが、咸臨丸は明治4年9月25日未明、更木崎に沈没した。 この片倉家家臣団の中に、俳優大泉洋の高祖父、大泉善八郎が乗っていたと、「咸臨丸の一生」という章にある。
長く福沢諭吉から幕末史をかじってきた私も、木村摂津守喜毅の渡米に際し父喜彦が家宝や財産を処分して公費以外に三千両を用意したことなどを始め、多くの詳細なエピソードを本書から学ぶことができた。 労作の見事な誕生を讃えたい。
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