『この国のかたち』の福沢諭吉<等々力短信 第1201号 2026(令和8).3.25.>2026/03/25 07:01

 司馬遼太郎さんの『この国のかたち』が、2000年に文春文庫の6冊本になった時に読んで、一冊のノートに自分なりの「索引」をつくった。 そのノート、ずっと頭の片隅にはあったが、行方不明になっていた。 最近、それが出て来たのである。

 たとえば、「福沢諭吉」。 ①70・120・160 ②108・161 ③134→⑥211にも ④51・193 ⑥132・219。

 第1巻70頁は5「正成と諭吉」。 『学問ノスヽメ』第7編、西洋の〝マルチルドム〟(martyrdom)にくらべると、日本のは「旦那への申訳にて命を棄たる者」にすぎないと論じて物議をかもした「楠公権助論」。 昭和7,8年前後から尊王論が国民教育の上で凝縮され、「楠木正成」は固有名詞を超えて思想語に近くなった。 明治憲法はりっぱに三権分立の憲法で、三権に統帥権は入らない。

 第3巻134頁61「脱亜論」。 「福沢諭吉には、瑕瑾(かきん)がある。人によっては玉に疵(きず)どころじゃない、とみる。」 明治18(1885)年3月、主宰する時事新報に書いた「脱亜論」、第二次大戦後、多くの人々に槍玉にあげられた。「福沢はアジアをバカにしている、自国独善主義である、〝入欧〟一辺倒主義である、すなわち明治後の〝日本悪〟を象徴している、などといわれた。/私などのような福沢ファンにとって手痛いのは、論文の末尾に、列強のアジア侵略を是認しているところである。しかも日本もそれに加われという。まことにけしからぬ。……丹念に読んでみることにする。」

 第6巻132頁は「言語についての感想(五)」。 「近代社会は、商品経済の密度の高さと比例している。商品経済の基礎は、物の質と量を明晰にすることを基礎としているが、文章もまたその埒(らち)外ではない。」「福沢諭吉の文章もまた、漱石以前において、新しい文章日本語の成熟のための影響力を持った存在だった。かれは、自分の文章は猿にさえ読めるように書くといった人物である。」「(福沢)でさえ、自分の文章から脱皮したのは、六十すぎに刊行した『福翁自伝』(明治31年)においてである。明晰さにユーモアが加わり、さらには精神のいきいきした働きが文章の随処に光っている。定評どおり自伝文学の白眉といっていいが、ただ重要なのはこれが文章意識をもって書かれた文章ではなく、口述による速記であるということである。」 当時、長しゃべりすると七五調になる伝統があったが、「『福翁自伝』にもその気配がにおう。このため内容の重さにくらべて、文体がやや軽忽(きょうこつ)になっている。」「しかし『福翁自伝』によって知的軽忽さを楽しんだあと、すぐ漱石の『坊つちやん』を読むと、響きとして同じ独奏を聴いている感じがしないでもない。偶然なのか、影響があったのか。私は論証もなしに、あったと思いたい。」

大の里、贔屓の力士、ここ10年の優勝者2026/03/24 07:11

 大相撲3月場所、各段の優勝者は6名の内、4名がモンゴル出身だった。 まだしばらくモンゴルの時代がつづくのだろうか。 横綱・大の里の復帰が望まれる。 2023年に福沢協会で金沢に旅行した時、新入幕の可能性が高まっていた大の里の出身地、河北郡津端町を通った。 そして、8日の選挙で石川県知事になった山野之義さんから、「津端町民の誓(ちかい)」が「福沢心訓」によっている話を聴いたのだった。(山野之義 前金沢市長の講演を聴く<小人閑居日記 2023.10.20.>) 大の里が左肩を脱臼した時、だれだったか解説者が、千代の富士のような大ごとにならなければよいけれど、と言っていた。 千代の富士は、脱臼ぐせのリスクを少しでも軽減するために、大きな相撲から前廻しを引き、頭をつける体格にマッチした取り口に変わっていって、大関・横綱に進んでいった。 大きな相撲で横綱になった大の里は、これから、どうしたらいいのだろうか。

 隠岐の海や遠藤が引退したのは、寂しい。 今場所は、贔屓にしている若元春、若隆景の兄弟が芳しくなかった。 だが熱海富士は一段レベルを上げたようだし、若手の義ノ富士、藤ノ川が面白い。 湘南乃海も、次第に十両から戻れそうになってきたし、金沢出身の炎鵬も来場所は十両に戻れるかもしれない。

 ここ10年の優勝力士を振り返ってみる。
2026年初場所 安青錦 3月場所 霧島
2025年初場所 豊昇龍  3月場所 大の里 5月場所 大の里 7月場所 琴勝峰
   9月場所 大の里 11月場所 安青錦
2024年初場所 照ノ富士 3月場所 尊富士 5月場所 大の里 7月場所 照ノ富士
   9月場所 大の里 11月場所 琴櫻
2023年初場所 貴景勝 3月場所 霧馬山 5月場所 照ノ富士 7月場所 豊昇龍
   9月場所 貴景勝 11月場所 霧島
2022年初場所 御嶽海 3月場所 若隆景 5月場所 照ノ富士 7月場所 逸ノ城
   9月場所 玉鷲 11月場所 阿炎
2021年初場所 大栄翔 3月場所 照ノ富士 5月場所 照ノ富士 7月場所 白鵬
   9月場所 照ノ富士 11月場所 照ノ富士
2020年初場所 徳勝龍 3月場所 白鵬 5月場所 中止 7月場所 照ノ富士
    9月場所 正代 11月場所 貴景勝
2019年初場所 玉鷲 3月場所 白鵬 5月場所 朝乃山 7月場所 鶴竜
    9月場所 御嶽海 11月場所 白鵬
2018年初場所 栃ノ心 3月場所 鶴竜 5月場所 鶴竜 7月場所 御嶽海
    9月場所 白鵬 11月場所 貴景勝
2017年初場所 稀勢の里 3月場所 稀勢の里 5月場所 白鵬 7月場所 白鵬
    9月場所 日馬富士 11月場所 白鵬
2016年初場所 琴奨菊 3月場所 白鵬 5月場所 白鵬 7月場所 日馬富士
    9月場所 豪栄道 11月場所 鶴竜

等々力短信 第1200号<等々力短信 第1200号 2026(令和8).2.25.>2026/02/25 07:10

 去年が昭和100年、戦後80年だったから、今年は昭和101年、戦後81年になる。 1975(昭和50)年2月25日に「広尾短信」として創刊した「等々力短信」は、ここに51年目に入り、1200号を迎えた。 2000(平成12)年末で家業のガラス工場の火を落としたので、それまで月三回5日、15日、25日に発行していたのを、2001年1月の899号から25日の月一回にした。 以後25年、この号が302回目の発行になる。

 苦しい時期だった2001年4月には、多くの皆様のご支援を得て、681号~890号を収録した私家本『五の日の手紙4』を刊行することができた。 「まえがき」に、「その時、その時に、面白いと思ったことを書き付けてきた。塵も積もれば山となる。二十五年の実績が、その量に質を与えることができたか。十日に一度の発行が、たえずアンテナを張っていることを求め、そのおかげで、「等々力短信」がなければ、記録できなかったことどもを、記録してきたということだけは、いえるかもしれない」とある。

一方、1991(平成3)年3月から、パソコン通信「朝日ネット」にフォーラム「等々力短信・サロン」を設けてもらい、短信を配信するほか、いろいろなことを書いていたが、閑居生活も落ち着いてきた2001年11月29日から<小人閑居日記>を書き始め、「朝日ネット」がインターネットのブログを開設したので2005年5月14日からブログ「轟亭の小人閑居日記」にした。 毎日書いていて、ざっと9,000位にはなっている勘定だ。 ブログの「索引」から、探してもらえば、ネットでスマホでも読める。

会社の整理と清算が一段落した頃、出入りの大工さんに、「これから何をやるんですか」と聞かれた。 「何もしない」と答えた。 今年の年賀状の添え書きに「働かず×5、今がある 人生論之概略」と書いた。 言わずと知れた高市早苗総裁の「働いて、働いて、働いて、働いて、働いて参ります」を踏まえている。 「短信」と「小人閑居日記」に、何を綴ってきたか。 主なるものは、福沢諭吉と落語。 「人生論之概略」は『文明論之概略』のもじり、気持は「戯去戯来自有真」で、人生は本来すべてが戯れにすぎないけれど、この世の中を軽く見ることによって、かえって世の中に真剣に自由に全力をもって向き合うことができるという。 落語は、1968(昭和43)年の第1回から通っている落語研究会というホール落語(この1月で692回)で、近年は5人の高座をマクラから落ちまで書いているから、平成から令和にかけての落語家は、どんな噺をしていたのか、一つの記録にはなるかと思う。 まさに「戯去戯来」、何もせずに、生かしてもらっている、その暇な時間に、面白いと思ったことを綴っているのが、感謝の印である。 惚けるまで、「まさかの時」まで、続けられたら有難い。

映画『必死剣 鳥刺し』冒頭の「拍手」2026/02/23 07:03

 <小人閑居日記>は、足かけ25年になるから、いろいろなことを書いてきた。 藤沢周平についても、映画は『蝉しぐれ』『秘太刀(ひだち) 馬の骨』『隠し剣 鬼の爪』『必死剣 鳥刺し』から、作品は直木賞『暗殺の年輪』、北斎を描いた『溟い海』、藤沢周平を描いたテレビドラマまで。 その中で、朝ドラ『ばけばけ』で、松野トキ(髙石あかり)の母フミを演じている池脇千鶴が『必死剣 鳥刺し』に出ていたのを「池脇千鶴の里尾、一夜一生」と特筆していたので、長くなるが、その一連を紹介したい。 まず、映画『必死剣 鳥刺し』冒頭の「拍手」と、三田の演説館での日本における拍手の起源から。

   映画『必死剣 鳥刺し』冒頭の「拍手」<小人閑居日記 2013.5.27.>

 5月4日に、BSプレミアムで放送された映画『必死剣 鳥刺し』を見た。 2010年、平山秀幸監督作品。 藤沢周平の原作である。 映画館で観なかったのは、主演の豊川悦司が好きでなかったからかもしれない。 桜満開の海坂藩城中、能舞台春楽殿での能から始まる。 エンドロールによると、能「殺生石」で、演じたのは梅若研能会、シテ梅若紀長。 海坂藩主右京太夫(村上淳)、側妾(そばめ)連子(れんこ)(関めぐみ)、中老の津田民部(岸部一徳)を始めとする執政の重臣たちから、物頭(ものがしら)保科十内(小日向文世)・兼見三左ェ門(豊川悦司)など家臣、奥御殿の女性たちが居並んで能を観ていた。 能が終わると、まず連子が拍手した。 すると、藩主右京太夫が拍手し、それを見て、一同が拍手した。 あとでわかるのだが、この冒頭シーンは物語の深い事情を象徴していた。 藩主は才色兼備で政治好きの愛妾にぞっこんで、藩政に連子の意見を採用するため、執政たちは口出しできず、明白な失政が表面に出てきていた。 藩財政が苦しい中、廃寺が復興され、大伽藍が出来ると、その寺を宰領したのは連子の父だった。 執政会議に出された倹約令の提案は、ことごとく否決された。 連子は藩主の執務部屋にも顔を出す。 奥御殿の経費を削った勘定方の安西(どこかで見た顔だと思ったら落語家の瀧川鯉昇)は切腹させられた。 そういう状況での、側妾の拍手に続く藩主の拍手、そして一同の拍手だった。

 私は、この拍手に違和感を持った。 江戸時代に拍手はなかったはずだ、と思ったのである。 藤沢周平の原作を見たが、拍手はなかった。 「拍手は三田の演説館から始まった」と、どこかで読んだ記憶があった。 探すと、桑原三郎先生の『福澤先生百話』(福澤諭吉協会叢書・1988年)の「第七五話 三田演説館」だった。 「皆さんは、人の話を聞いた後で、よく拍手するでしょう。あの拍手も、三田演説館から日本中に広まったものなのです。」

 能を観終わった人びとが、藩主を筆頭に、橋廊下を退場する。 艶やかに着飾った連子が橋廊下にかかった時、兼見三左ェ門が近寄り、柱に押しつけるようにして、その胸を小刀で刺した。 覚悟の兼見は、その場に控えた。

       君側の奸(姦)を斬る<小人閑居日記 2013.5.28.>

 側室に藩主がぞっこんで、藩政に口出しさせることは、よくあったようで、小説のよい材料だ。 幕府が諸大名の正室と嫡子を人質として江戸に留め置いたこと、藩主が急死して世継ぎがなければお家断絶となることが、その背景にあった。 今、宮部みゆきさんが朝日新聞朝刊に連載中の『荒神』でも、東北の香山藩主瓜生久則の側室、由良が「張り子のように中身のない女」なのに、「御館様(みたてさま)」と呼ばれて、恐れられている。 藩主の小姓、小日向直弥の家が、下手をすれば取り潰しに遭いかねない状況にある。

 由良といえば、幕末薩摩の「お由良騒動」を思い出す。 側室が自分の子に殿様の跡を継がせようとすると、お家騒動になる。 薩摩では、藩主島津斉興(なりおき)・家老調所広郷(ずしょひろさと)が世子斉彬(なりあきら)と対立した。 調所は斉興の側室お由良の方の子忠教(久光)を世子としようとし、嘉永2(1849)年斉彬派の家臣は忠教暗殺をはかり発覚、切腹・遠島などの弾圧を受けた。 のちに幕府の介入で、斉興は隠居し、斉彬が藩主となる。 斉彬の急死後、久光が藩主忠義の実父として藩政を掌握し、幕末薩摩の活動の上に立つ。

山田洋次監督の映画『たそがれ清兵衛』と『福翁自伝』2026/02/21 07:09

 <小人閑居日記>は、パソコン通信時代の朝日ネットのフォーラム「等々力短信・サロン」に、2001年11月29日に書き始めた。 ブログ「轟亭の小人閑居日記」になったのは、2005年5月14日からである。 まだ初期で、ブログでは読めない頃に、「『たそがれ清兵衛』と『福翁自伝』」と、「『たそがれ清兵衛』と黒澤明」を書いていた。 その時に観た山田洋次監督初の時代劇映画『たそがれ清兵衛』の原作は、藤沢周平の三作品「たそがれ清兵衛」「竹光始末」「祝い人(ほいと)助八」だった。 昨2月20日までのNHK FM「朗読の世界」で、中原丈雄が最後に読んだのは、その「祝い人(ほいと)助八」であった。 <小人閑居日記>の「『たそがれ清兵衛』と『福翁自伝』」と、「『たそがれ清兵衛』と黒澤明」を、二日にわたり再録させてもらう。

    『たそがれ清兵衛』と『福翁自伝』<小人閑居日記 2002.12.4.>

 山田洋次監督初の時代劇映画『たそがれ清兵衛』を観た。 舞台は海坂(うなさか)藩、藤沢周平さんの三作品を原作としているから、月山や鳥海山を望む風景も、「で、がんす」という言葉も、父方のルーツの地である山形庄内の鶴岡のもので、なつかしい感じがすると同時に、観終って、父に観せたかったという思いにとらえられたのであった。

 清兵衛(真田広之)は五十石取の下級武士である。 それも二十石は借上げ(諸藩が財政窮乏のため、家臣に対して知行高や扶持高をへらしたこと)だったから、実質三十石だった。 長く労咳を患って死んだ妻の治療費や葬式代のための借金を抱え、たそがれとともに酒の誘いなどには付き合えず帰宅、夜遅くまで内職の虫籠づくりをしながら、もうろくした母と幼い二人の娘の面倒をみて、ひどく貧しく暮している。 すぐ思い出すのは、中津藩の下級武士だった福沢諭吉の家の暮しである。 十三石二人扶持というから、「たそがれ清兵衛」よりも、たそがれている。 『福翁自伝』には、少年時代からなんでも自分でやり、下駄づくりや刀剣の細工の内職をしたことが書かれている。

 山田洋次監督は、ほんの少し前の祖先である幕末の下級武士の暮しがどんなものか、そんな辛い環境で暮しながら、どこか凛としていた姿を、リアルに描きたかったのだという。 監督の祖父は、九州の小さな藩の下級武士の息子だったのだそうだ。 たそがれ清兵衛の親友で、宮沢りえの演じた飯沼朋江の兄、倫之丞役の吹越満は撮影前に、山田監督から『福翁自伝』を渡されたという。 吹越満は「幕末の山形では、江戸や京都で何が起っているか普通の侍はまだ気づいていないけれど、僕が演じる飯沼は情報を仕入れてきて、「このままじゃ駄目だ」と言う。 これは諭吉と同じようなものをきちんと背負っている、ということだと思うんですが。 この本は読み物として面白かったですね」と語っている。 私は監督が読ませた意図は、下級武士の暮しの方に力点があったと思うのだが、監督の念頭に『福翁自伝』があった証拠として、このプログラムにある話は面白い。