“警戒警報”金属盗難、次はコレ ― 2007/03/01 07:42

26日朝、川崎市緑ヶ丘霊園で、墓石に備え付けられているステンレス製の線 香皿が、200個ほど無くなっていた。 いやはや、こんなところまで来たか。 霊園の関係者は、テレビのインタビューに「バチが当るでしょう」と語ってい た。 中国の建設ラッシュなどによって金属価格が高騰しているとかで、この ところ金属盗難のニュースが続いている。 アルミの門扉、銅の電線、ステン レスの車止め、防潮板、灌漑用水路水門の板、そして茨城県や栃木県では火の 見櫓の半鐘があちこちで盗られて、火事を知らせるのが「おジャン」になった。 古河電工の工場だったかが厚い銅板を盗られたと思ったら、昨日はお寺の屋根 を葺いている途中の銅板、重機搬入用の鉄板が無くなった。
ドロボウの目から見ると、日本は宝の山だそうだ。 散歩のつれづれに、つ ぎは何が危ないか、見て歩く。 JR、私鉄など鉄道関係者は、始発の前にコレ が無くなっていないか、点検する必要があるだろう。 線路である。 線路を 盗られると、電車は走れないからね。 電車が不通になれば、電線もあちこち で盗りやすくなる。 信号ケーブルも、危ない。 電車もステンレス製の車輌が 多いから、やられるかもしれない。 「バチが当らない」と知れると、奈良や鎌倉の大仏も要警戒になる。
ドロボウさんには、まず放置自転車あたりから片付けてもらったらどうだろ う、などと虫がいいことを考える。 提案するまでもなく、それも時間の問題 かな。
野次馬の「国立新美術館」 ― 2007/03/02 07:09

25日の日曜日、野次馬だから六本木の「国立新美術館」へ行ってきた。 わ ざわざ日曜日に行かなくてもよさそうだが、家人の都合でそうなった。 万事 に優先しなければならない理由だから、しかたがない。 行列だろうと思って 覚悟して行ったのだが、それほどでもなかった。 日比谷線の六本木駅から、 おつな寿司の前を通って、少し先を斜めに入る。 そんな見当だけつけて、あ とは巨大なものが現れるのだろうと、思っていたのだが、現れない。 けっこ う行きづらい場所にある。 黒川紀章さんのウェーブは、存外こじんまりして いるのだった。
せこくも前売券を買っておいたのはポンピドー・センター所蔵作品展『異邦 人(エトランジェ)たちのパリ1900-2005』。 僭越ながら、カンディンスキー など、色の感じがなかなかいいな、と思う絵が何点かあった。 オギュス・荻 須高徳は、明るい絵が来ている。 菅井汲が、いい。 野次馬の駆け抜けだか ら、その程度の感想だ。
ご存知のように、いくつもの展覧会がやれる作りになっている。 ついでに、 入場無料の『黒川紀章展―機械の時代から生命の時代へ』も見てきた。 黒川 紀章さんが世界中のあちこちに(中国も多い)設計していることを知る。 ず いぶん儲かっているんだろうな、と思った。
六本木から広尾まで歩く ― 2007/03/03 07:06

例の「国立」問題であるが、六本木の「国立新美術館」は「独立行政法人国 立美術館 国立新美術館」というのだそうだ。 「国立新美術館」が、ちょい と駆け足になって、三ツ星レストランの「ブラッスリー ポール・ボキューズ ミュゼ」や、地下のミュージアムショップ「スーベニアフロムトーキョー」を 覗かなかったのは、次の予定があるからだった。 予定といってもたいしたこ とでなく、広尾でくず餅と大学いもを買うこと、美術よりも団子の類である。
「国立新美術館」の正面を出て右へ、西麻布方面に歩く。 外堀通りの六本 木トンネルが見えてくる。 六本木ヒルズを見上げながら、外堀通り沿いの階 段を上がって、ヒルズ裏の旧テレ朝通りを広尾へ向って歩く。 広尾に住んで いた頃(昭和45(1970)年5月から昭和51(1976)年10月)、よく六本木ま で散歩に来た道だ。 中国大使館の周りは、警官がそこここに立って警戒して いる。 この前通った時は、法輪功のメンバーか支持者が数人、大使館に向っ て横断幕を掲げていたが、今回はいなかった。 そういえば広尾の家を売る契 約を第一勧銀(現みずほ)広尾支店でした1976年7月27日に、ロッキード事 件で田中角栄が逮捕されたのだった。 日中国交正常化が1972年9月29日、 広尾に在住した前半は、ここは台湾の大使館で、中国(北京)の大使館は有栖 川公園横の南部坂(『忠臣蔵』のそれは、ここでなく赤坂)、ドイツ大使館の裏 手にあった。
息子生誕記念の地、愛育病院前を通り、広尾の商店街へ。 細々ながら縁日 だった。 そうだ25日だ、「広尾短信」発行のもとになった「五の日」である。 近年祥雲寺門前に出来た亀戸天神 船橋屋の出店「こよみ」で、くず餅を、左に 曲り次を右に曲った左側、少し路地を入った「あもう」で鳴門金時の大学いも を買う。 寺島しのぶだったかが、テレビで紹介していて知り、先日幼稚舎に 来た時、寄ったら結構な味だった。 改築中のフロインドリーブに寄ってパン を少々、家人は中原淳一グッズの店にも寄った。
「拝啓 渋沢栄一様」 ― 2007/03/04 08:02

朝日新聞夕刊連載の“ニッポン人脈記”、2月15日から3月2日までの「拝 啓 渋沢栄一様」(中島隆記者)を、たいへん興味深く読んだ。 学校を出てし ばらく、食堂の食器に星のマークがついていた渋沢栄一のつくった銀行に勤め、 いわば渋沢の丁稚をやったから、渋沢栄一にはずっと関心がある。 幕末から 昭和の初めまでを生き(1840(天保11)~1931(昭和6))、500もの株式会社 をつくった「日本資本主義の父」、1873(明治6)年大蔵官僚を辞めた後は「官 尊民卑」の打破を課題にし、商業の近代化教育や女子教育に熱心で、250もの 文化や芸術の支援事業、慈善福祉活動、民間外交にかかわった。 金儲けより も『論語』の恕(じょ)、思いやりの心を重視した「論語とそろばん」の、利益 と道徳が両立する経営を説いた。
その渋沢栄一がかかわった一つ一つの事業の現在はどうなっているのか。 今、後継者たちは、渋沢栄一に郷愁を感じ、渋沢栄一に学ぼうとしている。 そ れはとりもなおさず、いまの私たちの社会のできばえが思わしくないことの裏 返しなのだからと、この連載は追及した。 渋沢栄一が現在の社会状況を見た らどう思うか、それを問いかける「拝啓 渋沢栄一様」なのであった。
世のため、人のために働く喜び ― 2007/03/05 07:56
“ニッポン人脈記”「拝啓 渋沢栄一様」(中島隆記者)に登場した人の言葉か ら。
1997年、第一勧銀の総会屋事件の時、広報部次長だったという作家江上剛 (53)さん、渋沢栄一が唱えた「人々のために」という銀行の初心が薄れてき てしまったと、春から銀行員になる若者に言いたい「銀行は金もうけの事業で はなく、社会のインフラ。世のため、人のために働く喜びを知ってください」 (第2回)
東京商工会議所の月報に渋沢栄一の伝記小説を連載している、おもちゃメー カー、バンダイの元社長山科誠(61)さん「金がほしい、と思うのはいつの時 代も同じ。でも商売道をはずれたら、世の中に罪悪しかつくらないんですよ」 (第7回)
おばさんが渋沢家に嫁ぎ、祖父の開いた銀座の薬局は渋沢家にかなり経営支 援を受けただろうという資生堂の名誉会長福原義春(75)さん「金もうけでな く、世の中の役に立つ文化支援をすることで、信頼を得られる。私は経営とメ セナは一体だと思う。そもそもお金だけでは、心の豊かさは買えないじゃない ですか」(第8回)
渋沢栄一のひ孫で、渋沢敬三の子、渋沢栄一記念財団理事長の渋沢雅英(82) さん「渋沢栄一という旗を立てると、中国の人は喜んで受け入れてくれる。日 中友好の懸け橋になればと思います」(第10回)
渋沢栄一の故郷、埼玉県深谷市に昨春開校した通信制の創学舎高校校長で、 帝京平成大学助教授の五十嵐雅子(58)さん「幕末にパリに行き、すぐにチョ ンマゲを切った。激動の時代を精力的に生き、女性関係にちょこっと問題があ る。人間としてのおもしろさにひかれました」(第12回)
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