アジアの近代化と福沢、ベトナムの場合2013/10/04 06:38

 宮地正人教授の「福澤の脱亜論」を聴いたあとの和田實さんのお話で、朝鮮 の開化派、独立運動派が福沢に影響を受けたように、中国の孫文などは福沢と 関係があったのだろうか、ほかのアジア諸国から慶應義塾への留学生はあった のだろうか、という疑問が出された。

 私は福沢と孫文の関係について、聞いたことがなかった。 『福澤諭吉全集』 と『福澤諭吉書簡集』の索引を見ても、「孫文」は出てこない。 孫文が日本に 亡命したのは明治32(1899)年、宮崎滔天・内田良平らの支援を受け、東京 で中国革命同盟会を結成したのが明治38(1905)年である。 明治32年は、 福沢がその前年9月に脳溢血を発症した年で、年譜も空白になっている。 そ して明治34(1901)年2月3日に亡くなった。 孫文は、日露戦争後の明治 44(1911)年辛亥革命に成功し、翌年臨時大総統に就任したが、袁世凱にその 地位を奪われて、再び日本に亡命した。 福沢の著作や思想に影響を受けたか どうかは、わからない。

 私が聞いたことのあったのは、ベトナムのケースである。 『福翁自伝』の ベトナム語訳をしたハノイ国家大学人文社会科学大学のファム・ティ・トゥ・ ザン(ジャン)さんの話を聴いたことがあった。 近代ベトナムで最も早い段 階に福沢諭吉の影響を受けたのは、20世紀初めに活躍した独立運動の指導者の ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)らである。 彼らは明治維新の成功 と日露戦争の勝利に強い刺激を受け、日本政府に武器の援助を求め、明治38 (1905)年に日本を訪れた。 しかし、彼らの希望は拒否され、武器の援助か ら遊学へと目的を変えることになった。 明治40(1907)年に200人の遊学 生が横浜や神戸や長崎などの港から上陸することによって、「東遊運動」が始ま った。

 ファン・ボイ・チャウが日本に来たのは、福沢が亡くなってから4年後のこ とであった。 彼は祖国を一日も早く解放したいという熱い愛国心から、福沢 の「一身独立して一国独立す」という精神と「日本を富強にするが大本願」と いう信念に強く感激した。 日本語が分らず、主に中国の書物を通じて福沢諭 吉の思想に接したという(福沢諭吉を漢越語に直し、フック・チャック・ズー・ カットと読んだ)。 (馬場註…ということは、孫文の頃の中国でも福沢の思想 がよく知られていたことになる。そして朝鮮の開化派も、それを読んだであろ う。そのあたりを研究し、中国や韓国の人々に認識してもらえれば、福沢に貼 られた「脱亜入欧」「アジア蔑視」「侵略主義のイデオローグ」という誤ったレ ッテルをはがすことができるかもしれない。) ファン・ボイ・チャウは明治 39(1906)年刊の『海外血書』で、福沢諭吉を見習うべき革新者として言及し た。 翌明治40(1907)年にはファン・ボイ・チャウと同じ熱い志を持つ志 士たちが、福沢の慶應義塾をモデルにして「東京義塾」を設立した。

 このあたり、詳しくはファム・ティ・トゥ・ザン(ジャン)さんの「『福翁自 伝』のベトナム語訳を手がけて」(『福澤手帖』128号2006年3月)、「ベトナ ムにおける福澤研究とその課題」(『福澤諭吉年鑑』38・2011年)を参照して下 さい。