磯田道史さんの荻生徂徠像2015/07/03 06:30

 磯田道史さんが『無私の日本人』「中根東里」で書いた、荻生徂徠である。 荻 生徂徠ほど政治臭のある学者はいない、という。 その性格は、学者というよ りも派閥作りにたけた周旋家であった。 生い立ちがそうさせていた。 徂徠 の父は、のちに将軍となる徳川綱吉の侍医であったが、罪によって上総の茂原 に流されている。 徂徠は14歳から浪人の子となり、辛酸をなめた。 身を 立てるには、学問をせねばならない。 とぼしい書物で、ひたすら励んだ。 25 歳で江戸へ出ると、政府高官へのつてが得られるよう、芝増上寺門前に塾をひ らき、その高僧の知遇を得て、柳沢吉保の儒臣となる。 生まれつきの政才と いうものが、この男には備わっていた。

 さらに、肝心の学問のなかに、はったりがあった、というのだ。 徂徠は他 人の学問を「曲解」とする以上、自身が儒教を「正しく」解釈してみせる必要 があった。 ほんものの孔子の教えを知るには、その時代に近い言葉、古文辞 (こぶんじ)に通暁すべきだ、といった。 「おれは唐語(中国語)がわかる」 と豪語した。 しかし徂徠自身は、それほど、唐語に通じていたわけでなく、 岡島冠山という元長崎通詞の中国語の達人を知恵袋として使っていたにすぎな い。

 中根東里に会いたいと言った時期の徂徠は、おのれの学派を伸張させるため に、ひたすら動いていた。 諸侯・寺院あらゆる方面に出入りし、学問に興味 をもつ者を誘い、とりわけ、若年の英才を探し出して、門弟にし、おのれの脇 をかためた。 東里は、のどから手がでるほど、欲しい弟子だった。

 徂徠は、東里の学才を激賞して、入門を許した。 東里は、平仄を守り、正 しく韻を踏んだ、珠玉のごとき詩文十数首を、徂徠に示した。 だが徂徠は黙 殺し、いやしくも文章を学ぼうとする者は、左史伝と史記と漢書を読むがよろ しい、といった。 東里は、くる日も、くる日も、左伝を読み、その序文を書 いた。 徂徠は一読し、「善し」と言い、「また昔日の阿蒙にあらざるなり」と 後題を付けた。 阿蒙とは、無学を笑われた、いにしえの呂蒙のことで、「昔の ような無学ものではない。見違えたぞ」という意味だった。 東里は雀躍し、 呂蒙の一伝をつくって、徂徠に献じた。 徂徠はそれを激賞して、満座の客た ちに「このようにしてはじめて、ほんとうに左伝を学びつくしたといえる」と 宣した。

 東里の名声は、都下に鳴り響いた。 だが文名があがるにつれ、東里の心は 落ちていく。 ついに病に臥した。 たまたま手にした「孟子」の浩然の気の 章を読んで、電戟に撃たれ、生涯を大きくかえる。 なんらかのこだわりが落 ちて、還俗を決意した。 蓮光寺の慧岩は、すこぶる鑒識(かんしき)があり 「ならば、寺中の別舎で髪をのばされるがよい」と言ったが、徂徠は不快感を あらわにした。 僧院にいて、諸宗の僧と交わり、唐音を研究し、漢籍に注釈 をつけ、徂徠学を陰で支えてもらえれば、それでよい。 東里は、徂徠が怒っ ていると知り、全身全霊をこめて弁明の文章をしたためた。 徂徠は自らは手 をくださず、門弟の太宰春台に反駁を命じ、徂徠一門はよってたかって、東里 の排斥をはじめた。 東里は驚きの挙に出る。 一日、竈に火をおこし、作る ところの文章をすべて、火中に投げ入れた。 一時とはいえ、徂徠の虚名をた のみ、文名をあげたおのれを恥じたからである。

 東里は途方にくれた。 寺を出ても行くあてがない。 あらためて、荻生徂 徠の隠然たる力を思い知らされた。 朋友は、あれこれと言って、遠ざかって いった。

 そう、磯田道史さんは書いているのである。 そこに、細井広沢(こうたく) という人物が登場する。 以前住んでいた近くの、等々力の満願寺に、その墓 があるので、名前は知っていた。

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