ポツダム宣言と天皇制の問題 ― 2015/08/20 06:28
スチムソン陸軍長官は、戦後の1947年2月『ハーパー』誌に発表した論文 「原子爆弾使用の決断」で、「われわれはこの目的達成のために、二枚の切り札 (マスターカード)を持っていた。一つは、日本皇軍に対して威力をもつ天皇 であり、もう一つは原爆であった。この原爆によって、天皇およびその側近た ちをして、無条件降伏を余儀ないものと感じさせ、天皇の日本国民に対する測 り知れない力をもって、日本軍をしてわれわれの命令に従わせるということを 達成すべきだと考えた」と書いているという。
この観点からスチムソンは、一昨日書いたようにして、ポツダム宣言原案と なっていく「対日計画案・覚書」と「共同声明案」を、1945年7月2日にト ルーマン大統領に提出した。 「覚書」には、「われわれが現在の皇室の下にお ける立憲君主制を排除するものでないと付け加えるならば、日本側の受諾の可 能性を相当高めることになると個人的に思っている」と書かれていた。 「共 同声明案」は、対日声明案起草小委員会の検討を経て、「12. われわれの諸 目的が達成せられ、かつ日本国国民を代表する平和的傾向を有し、責任ある政 府が確実に樹立されたときには、連合国の占領軍は、ただちに日本国より撤収 されるものとする。/このような政府は、再び侵略を意図せざることを世界が 完全に納得するに至った場合には、現皇室の下における立憲君主制を含みうる ものとする。」となっていた。
新任のバーンズ国務長官は、ポツダムに出発する前、ハル元国務長官に意見 を求めたところ、この12項は連合国軍の爆撃が頂点に達し、かつソ連が参戦 するまで待つのが得策だとした。 グルーも必死で、ポツダムに向かうバーン ズ国務長官に自己の所信をしたためたメモを渡したり、マックロイ陸軍次官補 を通じてヨーロッパにいるスチムソン陸軍長官にも伝えさせたりした。
ポツダム会談(7月17日~8月2日)開始の一日前、米国ニューメキシコ州 の砂漠で行われた人類最初の原爆実験の成功を伝える機密電報が、スチムソン の手元に届いた。 これを知ったトルーマンは、会談でスターリンに対して、 強硬な姿勢に転じたという。 問題の12項で、首脳会談の結果、ポツダム宣 言草案にあった「現皇室の下における立憲君主制を含みうるものとする。」とい う文言は、バーンズや軍部の強硬な反対によって削除されたのである。
7月26日、全世界に向けてポツダム宣言が発表された。 これを受け取った 日本政府は、7月28日、鈴木貫太郎首相の「黙殺」談話をもって応えた。 ト ルーマンは、これを原爆投下の口実に利用した。 8月6日の広島、8日のソ 連対日参戦、9日長崎と、悲劇が繰り返されることになった。
8月10日、日本政府は「国体護持」を条件にポツダム宣言を受諾することに 決めた。 日本側の対応は、まさしくグルーが、そしてスチムソン自身が予想 していたとおりのものであった。 同日のホワイトハウスの米首脳で、スチム ソンは日本政府申し入れの線で回答するよう主張したが、トルーマンとバーン ズは、アメリカ国民の激しい反発を恐れて、明確な言質を日本政府に与えるこ とに反対した。 ギャラップ世論調査は、アメリカ国民の7割以上は日本国天 皇を処刑ないし終身禁固にせよと苛酷な処遇を要求していたし、国際的にも、 オーストラリア、ニュージーランド、中国などで天皇を戦争犯罪人として取り 扱うべきであるという声が高まっていた。 数時間の議論の末、フォレスタル 海軍長官の妥協案が出され、結局、ポツダム宣言の言い回しの線に沿って回答 文をまとめ、できるだけ世論の反発を避けるという方針に落ち着いた。 「降 伏の時より、天皇および日本国政府の国家統治の権限は連合国最高司令官に従 属する」として、天皇の地位の保証をもとめた日本政府の要求に直接応えては いないが、他方で「日本国の最終的な政治形態は『ポツダム宣言』にしたがい、 日本国国民の自由に表明する意思により決定されるべきである」と述べること によって、もし日本国民が望めば占領後でも天皇制は残りうることを、それと なく示したのである。
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_ 児玉 光雄 ― 2015/08/24 13:17
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