月刊『れいめい』発行のいきさつ ― 2015/08/07 06:35
『れいめい』のご本にある、月刊『れいめい』発行のいきさつが興味深い。 『れいめい』は、漢字で書けば「黎明」、夜明けの意味である。 太平洋戦争が 終わった時、寺崎太郎さんは御殿場線沿線の曾我の里に「閑居」していた。 下 曾我駅で下車して徒歩約20分の上曾我村で、梅林の真っ只中にある純農村だ った。 下曾我駅付近の人びと(主として青年)は、上曽我と雰囲気が少し違 い、いわばインテリで、職業もさまざまであり、ことにそこの青年団が、腐敗 した村のボスどもに、にらみをきかしていたのは、心強い限りだった、という。 そうした若人たちが、寺崎太郎さんの家に集まるようになった。 すでに社会 に出て、職業に就いている人、家業にいそしんでいる人、学生と、色とりどり だった。 集ってくるのは、夜の8時頃になり、番茶におせんべいで文字通り の談論風発となり、たいてい夜中の2時3時になった。 彼らの胸底を等しく 支配していたのは、やるせない虚脱感だった。 これからの人間として生きて 行く目標をどこに置くかについて暗中模索し、苦しみぬいていたからである。 わずかに救いとなったのは、「文化国家」・「平和国家」という、二つの“お題目” が、混乱裡にもどこからともなく叫びつづけられることであった、と寺崎太郎 さんは書いている。
上曽我在住の昭和21年6月、第一次吉田内閣外務次官に就任した。 その 前も、外務次官辞任後も、ときおり、国際問題についての講演を頼まれた。 当 時の世相の要求だったのだろう。 寺崎太郎さんは、昨日見た『れいめい』創 刊の辞「外交は常識である」にある考えを持っていたので、近村はもとより、 遠く各県の辺鄙な村へも出かけて話をした。 国鉄は全国一等のパスをアメリ カ局長時代以来発給してくれていた。 宿舎は主催者側関係者の民家に泊めて もらい、家族と同じものを食べさせてもらった。 もちろん謝礼は辞退。 薩 長土肥のような南国の連中の役目は完了した。 日本に「民主主義の根をおろ させ、花を咲かせ、実を結ばせる」という、長期建設的事業と取り組むにはハ デでなく、ねばり強い東北人にこそ期待すべきではないかと思い、東北地方に 重点を置き、それも重要都市でなく、山奥の宮城県筆甫(ひっぽ)村、南会津 の田島や荒海(あらかい)へ入りこんだ。 荒海には二度ほど行ったが、中年 の男たちがとくに熱心で、「たびたびお出でを願ってお話をうかがいたいが、そ れは、あまりにもあつかましい。だから、ガリガリ版でいいから、なにか雑誌 のようなものを出して、私たちに読ませてくれませんか」と言う。
刊行物となれば、ガリガリ版では淋しい、やはり普通の印刷にしたい。 上 曽我の家の青年たちの議に付して、誌名は「民主主義日本の黎明を招く」と言 う意味合いで「黎明」と決まり、表題は本字ではむずかしいから、平仮名で「れ いめい」と記すことになった。 編集方針は、“不偏・不党・無色・透明”にお き、したがって広告は、歯をくいしばっても一行もとらない。
『れいめい』は、このように寺崎太郎さんの暮し方の中で生まれ出たのであ った。
私は、維新後の明治前半期、全国各地の青年たちが、人民の権利や自由の拡 大、国会開設や憲法制定について、いろいろと勉強し、談論風発した自由民権 運動を連想した。 明治13(1880)年、福沢諭吉は門下生松本福松を通じ相 模国(神奈川県)9郡の総代から依頼され、国会開設の建白書、相州九郡『国 会開設ノ議ニ付建言』をみずから起草した。 多摩の五日市青年グループが学 習して「五日市憲法草案」をつくった話は、昨年7月12日から16日までの当 日記に書いた。
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