「憲法」について ― 2015/08/30 07:01
日本国憲法・天皇・横田空域、そして憲法と私について、前にこんなことを 書いていた。
石原慎太郎議員の質問、憲法・天皇・横田空域
<小人閑居日記 2013. 2. 20.>
14日に書いた12日の衆議院予算委員会で石原慎太郎議員の質問だが、公会 計が複式簿記ではないという問題以外にも、ふれておきたい。 憲法問題については、戦後占領下に戦争の勝利者が、敗戦国を統治するため に即製した「押しつけ憲法」であり、それが独立後も数十年にわたって存続し ている事例を歴史の中で見たことがないという持論を述べ、安倍首相も「一週 間ちょっとで作られた」と一致した。 そして「総理大臣が憲法破棄を宣言し た時、これを阻む法律があるのか」と現憲法破棄と早期の改憲を主張した。 名 宰相・吉田茂の側近だった白洲次郎さんが、「吉田さんは立派だったが、サン フランシスコ講和条約を締結した時、なぜ憲法を破棄しなかったのか」と言っ ていた、と。
さらに憲法第一条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつ て」の「象徴」の具体的意味を問い、安倍首相は「権力を持つ存在ではなく、 日本の長い歴史と伝統、文化と日本国民を象徴する存在」と答えた。 石原議 員は大まかには正しいとし、天皇はプリースト・キングだ、神道の大祭司だ、 と。 神道は宗教とはいえないような、それを超越した日本の自然や文化、日 本人の崇高な感性というか情念というか、そういったものの結晶だ。 神道の 大司祭である天皇は、日本の感性がもたらした文化の象徴だ、決して政治の象 徴ではない、とした。 首相の靖国神社参拝については、政治問題になるから 行かなくても良いけれど、天皇陛下に靖国参拝をお願いしてもらいたい、とし た。 安倍首相は「陛下のご親拝について私がうんぬんする立場にない」と答 えた。
もう一つは米軍横田基地の管制空域開放の問題だ。 7日に古巣の都庁に寄 って借りて来た(13日、朝日新聞朝刊)という関東地方の管制空域の模型を示 して質問した。 この問題、私はまったく知らなかった。 在日米軍司令部が あり、有事の際は兵站機能を果たすというので、ふだんはほとんど使われてい ない横田基地の管制圏のために、日本の飛行機はそこを飛べず、ヨーロッパか らの便は、一度太平洋に出ないと、成田や羽田に着けない。 あと5年で日本 の国際線はパンクする。 日本と商談がしたい外国のビジネスジェットが下り られない、手配しても2か月も先になるという。 国の衰退につながる。 本 来は横田基地の返還を求めるべきだが、最初のステップとして、空域の返還、 軍民の共同使用を交渉してもらいたい、と。
「憲法」について<小人閑居日記 2013. 2. 22.>
石原慎太郎議員の「憲法」に関する持論には、私は違和感を感じた。 先日、山口正介さんの『江分利満家の崩壊』(新潮社)で読んだのだが、正介 さんの母、山口瞳夫人の治子さんは、いつも日本共産党に投票していたという。 それは戦争は二度と嫌だから、憲法第九条を死守することが大切と考えていた ためだ。 3月10日の東京大空襲の時に、隅田川沿いの自宅から、すぐ上の姉 さんと二人、雨と降る焼夷弾の下を、炎を避けるためにドテラを羽織って駆け 出し、火のついたドテラを脱ぎ捨て、コンクリートのビルに逃げ込んで、よう やく命を拾った体験があった。 その体験は、9・11の第一報をテレビで見て、 咄嗟に「ざまあみろ! 思い知ったか!」と快哉を叫んで、正介さんを驚かせ たほどの、深い傷を心に残していたのだという。 昭和2(1927)年のお生れ だから、17,8歳だった。
同じように空襲から逃げた体験があっても、4歳だった私は、ずっと能天気 だった。 戦後教育六三制の二年目に小学校に入り、新聞やラジオで「民主主 義」「戦争放棄の平和憲法」「基本的人権」「言論の自由」「男女同権」「文化国家 建設」のシャワーを浴び、小さい時からアメリカ映画をたくさん観て育った。 その空気の中で、日本国憲法の精神は、当り前のものとして身についたのであ った。 ちょっと銀行勤めはしたが、長く下町の零細工場を生業として暮して きた。 共産党までは行かないけれど、どちらかといえばリベラルで、社会民 主主義的な福祉国家を理想としてきた。 近年、大企業で高度成長の日本経済 を支えて来た同級生のかなりが、保守的で、自民党支持、かなり右翼的な考え を持っており、朝日新聞は偏向しているからと読まないことを知った。 現実 の世界を見て来た企業戦士たちと、子供のまま老人になったような私の「書生 論」との違いかもしれない。 「戦争放棄の平和憲法」を世界に広めて、核と 軍備を廃絶し、戦争のない世界をつくることはできないだろうか。
福沢諭吉についての耳学問を続けてきて、福沢の思い描いていた近代化構想 のいくつかが、6,70年遅れて、日本国憲法に書かれていることを知った。 福 沢はイギリスモデルの議院内閣制(二大政党による政権交代制)を構想したが、 岩倉使節団の木戸孝允らは、ドイツ憲法を模範にする天皇主権の帝国憲法によ る明治国家をつくった。 福沢の『帝室論』は、ほとんど象徴天皇制を先取り していた。 福沢の女性論・家族論は、明治初期によくここまで考えたものだ と驚くほど、斬新なものだった。 明治14(1881)年の政変以後、福沢の近 代化構想が敗北していったことが、その後の第二次世界大戦の敗戦に至る日本 の針路を決めることになる。 日本国憲法で、福沢構想のいくつかは復活した 形になった。 そのためか、私が子供の頃、NHKしかなかったラジオから「天 は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」で始まる番組が流れて いた。 「人権の時間」だったか、「○○労働基準監督署は…」と、労働三法の 普及を図る番組だったように思う。 しかし現在でも、日本国憲法という枠組 が出来たのに、福沢が説いた自らの判断に従って行動する自立した国民が実現 したかは疑問で、結果として未だに民主主義が形骸化したままだという意見も ある。 私も、そんな気がしてしかたがない。
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