秋山徳蔵さんの奥さんのこと ― 2016/03/29 06:24
秋山徳蔵さんの奥さんの話も、テレビドラマと、ちょっと違う。 「忘れ得 ぬ二人の婦人」に、こう書いている。 「先妻は俊子といって、十七歳で私と 結婚した。私が二十六才のときだった。もと明石町にあった双葉女学校に学ん だので、熱心なカトリック信者だった。心の優しい女で、私はこの家内を熱愛 していた。世界中に比べもののない、いい家内だった。」
なかなか、こうは書けないだろう。 ましてや、今の奥さんだっているのだ。 と、私が思うのは、私が秋山徳蔵さんに比べて、小さい人間だからだろう。 そ れで些細なことだが、双葉女学校は、雙葉女学校ではないかと、思う。 雙葉 高等女学校は、明治42(1909)年築地明石町で開校した。 ついでに書けば、 秋山徳蔵さんの福井県武生の実家は高森姓で、ヨーロッパ庖丁修業から帰り、 大正2(1913)年11月に宮内省大膳寮司厨長に就任する前の7月、秋山俊子 と結婚し、秋山家の婿養子となった。
秋山徳蔵さんの文章に戻る。 俊子さんが、二男一女の母となって、いちば ん下の男の子が六つになった年に、肺結核を発病し、寝込んでしまった。 徳 蔵さんは、いくじのない話だが、世の中が真っ暗になってしまう思いだった。 毎日勤めから帰っては、附きっ切りで看病していたが、病状ははかばかしくな く、欝々たる日を送っていた。 仲のよい友達が見兼ねて、そんなことでどう する、お前には大事な務めがあるのじゃないか、気晴らしに歌でも習うがいい と、銀座の歌沢の〆松師匠のところへ引っ張っていってくれた。 それほど、 意気消沈していた。
病気は重くなる一方だった。 「ついには、痰を紙でとってもらうことさえ できなくなってしまった。私は、そのつど、口で吸いとってやった。甘い痰で あった。」 一年半目には、ついにいけなくなってしまった。 「臨終のとき、 私にきてくれというので、枕許にゆくと、家内は、永い間の礼をいって、喜ん で天国へゆきますというのだった。そして、痩せ細った手で、自分の財布につ けてあった小さな鈴を、私の手に握らせた。そして、こういった。 『たったひとつ、わたくしの心配なことは、あなたが癇癪もちでいらっしゃ ることですの。あなたのお仕事は、ほんとに、この上ないだいじなお仕事です。 お願いですから、役所にいらっしゃいますとき、坂下門をおはいりになります ときに、この鈴を鳴らしてくださいませ。そして、私が心配しておりますこと を、思い出してくださいませ』 そういい残して、死んでいった。」
秋山徳蔵さんは、その鈴を、いつもポケットに入れて持っていた。 そして、 坂下門を入るときは、必ずそれをチリチリと鳴らして、自戒のよすがとした、 と書いている。 この鈴の話は、ドラマにも出てきた。
小者の私は、結核の奥さんがいて、こういう看病をしていて、秋山徳蔵さん が大膳寮司厨長の務めをするのを、よく宮内省が許していたものだと思った。
最近のコメント