武士道の「公」意識と近代史 ― 2016/03/14 06:34
「司馬遼太郎思索紀行 日本人とは何か」、第二集「「武士」700年の遺産」 のつづき。 『ブラタモリ』「小田原」でも出てきた話になる。 戦国時代の小 田原、「町づくりの原点、文化の原点は北条にあった」。 家臣と領民をかかえ る大名である北条早雲は、武士はどう振る舞うべきかの心得、家訓「早雲寺殿 廿一箇条」を出した。 早起きをしろ、上下万民に一言半句も嘘(虚言)を言 ってはならない、他の者に質されれば恥と思え、など。 早雲は、伊豆一国を 支配し、これを「領国化」した。 まことに独創的で、領民の面倒を一切見る という支配の仕方。 その代わり、惣(村)の自治をおさえ、惣の若衆を領国 の戦力として吸い上げ、これを山野に駆って、早雲は関八州を支配した。 こ こに、伊豆人にとって、北条氏とその領国が「公」になった。
「名こそ惜しけれ」。 恩義のある人のために→この領国のために、に変わっ てくる。 家訓、法令が、「公」の意識に高まり、全国に広がる。
秋田藩の秋田沿岸、新屋(あらや)地区(秋田市)、栗田定之丞(さだのじょ う)十五石の貧しい下級武士が、飛び砂に数百万本の松を植え、二十里の海岸 砂丘に防風林を作った。 十五年以上、先のことを考え、「だだのじょう」と呼 ばれる。 八年も試行錯誤を続けるその姿に、人々の意識が変わり始める。 女 性、子供、手伝いの者までが参加、十四年間で七万人以上が参加した。 地域 のためという「公」の意識が庶民の間にも広がった。 貧しさの中に、誇りを 見出し、「公」に奉ずる気分が強かった。
幕末、迫りくる欧米列強。 人はどう行動すれば美しいか、公益のためにな るか、この二つが幕末人をつくり出している。(『峠』あとがき)
明治の近代化。 武士たちの意識が、庶民にも根づいていた。 全国に広ま った郵便制度は、明治政府は各地域の名主に依頼して特定郵便局をやらせ、こ の国をよくしていきたいという心意気により、4年で郵便ネットワークが完成 した。
日露戦争のあと、それが変質する。 司馬遼太郎さんは、明治38(1905) 年の日比谷焼き討ち事件、その大会と3万人が暴徒化した暴動こそ、むこう40 年の魔の季節への出発点ではなかったかと、考えている。 この大群衆の熱気 が多量に蓄電されて、以後の国家的妄動のエネルギーになったように思える、 と。(『この国のかたち』)
統帥権を軍部が拡大解釈して独走、参謀本部が秘密結社よろしく日本を乗っ 取った。 「公」の意識が、危機の時代を、非常に悲劇的なものにした。 司 馬さんは、熱中すること、熱狂することを嫌った。
戦後復興。 司馬さんは、民主主義を肯定し、好きだった。 日本人の気質 や慣習に適った自由な社会だと思った。 日本人一人一人がたしかな個をつくり上げていかなければ、ふたたび国が亡 ぶかもしれない。 「立憲国家は、人々、個々のつよい精神が必要なのです。 戦後日本はまだまだできていません。」
「私ども日本社会は武士道を土台にして、その“義務”(公の意識)を育てた つもりでいた。しかし、日本の近代史は必ずしもそれが十分であったとはとて も思えない。いまこそ、それをもっと強く持ち直して、さらに豊かな倫理に仕 上げ、世界に対する日本人の姿勢をあたらしいあり方の基本にすべきではない か。」(『全講演』より)
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