三島警視総監時代の福沢関係密偵報告書2019/02/08 07:17

 三島通庸が警視総監時代に、保安条例で福沢諭吉を東京から追放しようとし て、福沢の動静を調べていたことを知っていたのは、『福澤諭吉年鑑』で論文を 見た記憶があったからである。 探すと、それは2004年の『福澤諭吉年鑑』 31所収の研究資料、寺崎修さん(当時、慶應義塾福澤研究センター副所長)と 都倉武之さん(当時、武蔵野学院大学助手)の「史料 機密探偵報告書/福沢派 の動静ほか―明治十四年政変前後、明治二十年保安条例前後」であった。

 冒頭に『福翁自伝』「老余の半生」の「保安条例」からの引用がある。 「明 治何年か保安条例の出たとき、私もこの条例の科人になって東京を逐出される という風聞。ソレはその時塾に居た小野友次郎が警視庁に懇意の人があって、 極内々にその事を聞出して、私と同時に後藤象次(二)郎も共に放逐と確に云 うから、「ナニ殺されるではなし、イザと云えば川崎辺まで出て行けば宜(い) い」と申して居る中、その翌日か翌々日か小野が又来て、前の事は取消しにな ったと云うので事は済みました。」

 研究資料は、福沢諭吉に関係する機密探偵報告書を翻刻し、解説を加えたも のだが、収録された23通の内、20通が「三島通庸関係文書」(国立国会図書館 憲政資料室所蔵)のもので、三島が警視総監だった時代(明治18(1885)年 12月~明治21(1888)年10月)のものが中心である。 本来、探偵書の類が 残存するのはきわめて稀で、生前に焼却処分されるのが通例だが、三島が警視 総監在任中に没したので、最晩年に当たるこの時期の探偵書が未整理のまま、 大量に残ったと考えられるという。

 密偵の探索対象となったのは、主として政党、結社、新聞社、私立学校など であるが、福沢は、慶應義塾、交詢社、時事新報のオーナーであり、明治政府 にとって誰よりも監視を必要とする危険な人物であると考えられた。 探偵報 告書をみれば、福沢本人ならびに周辺の人々、交詢社、時事新報社、慶應義塾 がいかに密偵に注視されていたかがわかる。

 具体的に、どんなものがあるか。 「四 福沢諭吉ノ談話 明治19年1月 頃か」、福沢が門下生に語った政治状況に関する談話を報告。 内閣制度導入等 一連の改革は伊藤博文の力によるところが大きいが、そのきっかけは『時事新 報』の報道にあったと述べ、この改革の実施が遅れ、有為の人物(大井憲太郎 など)が国事犯となったことを惜しみつつ、過激者の存在は、国の進歩のため に有益な場合もあると述べたことを伝えている。

 「六 時事新報社内ノ状況 明治19年6月30日」、新聞社が記事の不足に 悩む中、時事新報社が手段を選ばず政府に接近して情報を得ようと企てており、 特に近来交際の途絶えている中上川彦次郎時事新報社社長と斎藤修一郎外務大 臣秘書官の関係修復を、福沢が望んでいると報告している。

 「八 福沢諭吉ノ談話 明治20年1月」、福沢が「或ル某」と語った談話内 容の伝聞を書き取った探偵書。 福沢は、日本政府の無駄を列挙して批判し、 日本はいつの日か必ず亡国となり、そのとき自分は米国へ逃げると述べたと伝 えている。

 「十三 交詢社大会ノ件 岡部伊三郎上申書 明治20年4月24日」、岡部 伊三郎の肩書は、大分県豊前国中津故山形県警部長中尾豊岳義弟。 交詢社大 会の様子を報告し、交詢社の実態は政党というべきであるから、解散させるか、 密偵を付するなど然るべき対応をする必要があると促す探偵書。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック